50年ぶりのマレーシア

1992年11月14日(土)     

マレーシアへ向けて
  前夜、茨城の娘の家に泊まり、早朝車で成田まで送ってもらって8時頃 空港へ着く。
  私と家内、長男と一緒の始めての空の旅である。娘と孫に見送られて マレーシア航空89便に搭乗する。私達を乗せた飛行機は滑走路へと向 かう。10時30分ジェット機は次第にエンジンの音を高めながら豪音 と共に晩秋の空へ吸い込まれていった。私の長い間の夢であったマレー シアへの旅が今始まったのだ。
   ジャンボ機は11時45分「只今高度9,000メートルに達しまし た」 と機内アナウンスがあり、ようやく水平飛行に入る。

  機内は満席で、日本人より諸外国の人の方が多い。
  12時近くになると機内食の昼飯がマレーシア人のスチワーデスの手 で運ばれてくる。南方民族特有の原色をふんだんに使った「チャイナ ドレス」風の「ユニホーム」に身をつつんだ「スチワーデス」は、いつ かどこかで見かけた娘さんの姿に良く似ている。
  食前にジュースやビールも出る、水割りの欲しい人などにはそれぞれ 運んでくる。機内は次第に騒然となってきた。

  船の旅とは違って誠に乗り心地がよい。7時間という空の長旅は退屈 をするのではないか、と思っていたが、座席は飛翼のすぐ前の窓際を指 定され眺めは良く至極快適な旅である。
  眼下に見下ろす雲は、さながら春の淡雪を思わせる様にちぎれて浮か んでいる。ちぎれ雲の間に見える青いところは海面なのか、僅かにさざ 波が見える様だ。
  機内では映画の放映が始まっているが洋画なので私は苦手だ。それよ り窓外の雲の様子を見ていた方がよほど面白い。

  ようやくクアラルンプールへの到着時刻が迫って来た、突然海の色が 茶色い縞模様に変わって来た。すると今度は陸らしい南方の景色がはっ きり見える。いよいよクアラルンプールの上空にさしかかって来た。
  機内放送が「只今クアラルンプールの上空に来ましたが到着滑走路に 離陸の航空機がおりますので10分程お待ち下さい」との放送がありそ の間スパン空港の上空を旋回する。スパン空港の上空からから見える 空港の周辺は、宅地造成か、それとも工場が建設されるのか堀り返され た赤土が一面に見える。山手のほうにはパイナップル畑が一山も二山も 麓から頂上を越えて裏側まで、実に見事に植えつけられている。
  現地時間16時40分(時差があり時計の針を1時間戻してあるから 日本時間の17時40分)飛行機は着陸態勢に入った。僅かな振動と共 に滑走路をしばらく走り、やがて到着ゲート前に止まった。
  50年前の戦後復員の時には、タイのバンコクから浦賀港まで船で 15日間の日数を要したのだから実に隔世の感がある。

  入国審査も終り荷物を受け取り、税関の前にいくと一人の外人が荷物 の中身を調べられていて、なかなか列は進まない。するともう一人の税 関吏が私達を手招きで呼びフリーパスで空港ロビーへ出た。
  ロビーには現地の旅行社の人が待っており、車でホテルまで案内して くれた。
  途中市内に入ると凄い車の渋滞が続く、流暢な日本語を使う現地の旅 行社の人は「今日はマレーシア国内の野球の試合があったのでその帰り で特別渋滞がひどいですねぇ」「雨が降っても野球をやるんですよ」と 言っていた。

  南方では午後の5時過ぎではまだ明るいはずなのに急に空が真っ暗く なり、大粒の雨が降り出してきた。車に乗っている人は良いが、バイク で走っている人達はあわてて高速道路の下に雨宿りしている。
  旅行社の人は「この国では今が雨季でしてねぇ」「方々で水害の出て いるところもありますよ」といっていた。
  私は一瞬耳を疑った。かつて50年前の1月10日から約5ヶ月程こ の国に駐留していた事があるが、マレーシアで雨季といった言葉を聞い たのは今が初めてだ。
  狂ったように降ってきた雨も、30分もするとからりと晴れてホテル へ着く頃には普通の夕景色になっていた。

  旅行社の人の手際良い手配によりホテルへ落ち着くことができた。
  このホテルはフェデラルホテルといって、クアラルンプールで一番の 繁華街、ブキットビンタン通りに面しており、地上22階建ての一流 とはいかないが観光誌にものっている有名なホテルらしい。
  色の浅黒い、髭をたくわえた体格のよいドアーマンが、重いスーツケ ースを持って4階の部屋へ案内してくれた。


11月15日(日)     

午前中市内観光
  今日は朝飯と昼食はホテルで食べる事になっている。2階のレストラ ンへ行き案内されたテーブルで待っているとボーイさんが来て何やら英 語で話していった。息子はうなずいてボーイさんの後を着いていき、お 皿に料理を持って来て「朝はセルフサービスなんだそうだよ」という。
  初めてのホテルでのマレーシア料理はたくさん並べてあるがどれがと んな味がするのかさっぱり分からない。パンとそのほか適当なものを持 って来てみたものの、どれを食べてもみんな辛い物が中心だ。
  家内は小さな緑の薄い輪切りを口に入れた途端「ウー」と悲鳴を上げ て皿に戻してしまった。
  かって、私達がクアラカンサールの町へ駐留していた頃同じ経験をし た事がある。町のレストランで肉のゴロ煮を食べた途端、口中が火の海 になりあわててコップの水を飲んで火を消した事が思い出された。

  8時30分旅行社の人がワゴン車で迎えに来てくれた。他のツアーの 人もいるものと思っていると、私達3人だけだった。午前中は市内観光 に出かける事になっている。
  車の混雑している目抜き通りを抜けると官庁街に出た。国会議事堂、 警視庁、国家記念碑、この国家記念碑は噴水に囲まれた大理石の台の上 にあり、1961年まで12年間も続いた独立戦争での戦没戦士の霊に 捧げられたもの。台座の上にはマレーシア独立のために戦う7人の兵士 の姿がブロンズに力強く掘り込まれている。
  公園前の広場には、取り残されたマンゴーが青い実を5、6ケつけて いた。
  ここは川と川との合流点になっていて、クアラルンプールの発祥の地 と言われている。昔この地に移住してきた住民がスズ鉱脈を発見し、次 々と集まってきた労働者によって現在のようなクアラルンプールに大発 展を遂げたのだそうだ。


国王の宮殿
  マレーシア国王の宮殿もやはりこの近くにあって、手入れの行きとど いた鮮やかな緑の芝生に南国の赤い花、ブーゲンビリアが彩りを添えて いる。
  ここの国王は、各州のサルタン(王様)が5年毎に交替して国王とな り国の政治を取る仕来たりになっていて、現在はペラ州クアラカンサー ルのサルタンが国王になっていると言っていた。
  宮殿の前には両側に銃をもった衛兵が立っており、出入者を監視して いる。しかし日本の宮城の衛兵とは全く違って誠に民主的で、ニコニコ と愛想よく観光客と並んで記念写真を取らせてくれた。


マレーシア縦断国際鉄道
  私達は市内観光の帰り、クアラルンプールのマレーシア国際鉄道の駅 へ明日予定しているクアラカサール行きの乗車券を買いに寄ってみた。 駅の建物はなるほど大きいが日本の駅と違って汽車の本数が少ないせい か駅舎内に明るさがなく、閑散としていて活気がない。
  マレーシアの西海岸を通っている鉄道は、シンガポールを起点として タイ国のノンブラドックまで3ヶ国を通過している国際鉄道だ。50年 前私達は同じこの鉄道を利用した事があった。当時は何処の駅へいって もゴムの木の廃木が山積されており、蒸気機関車の燃料として使われて いて、火の粉が飛んで来るので無蓋車に乗っている私達を悩ませたもの だった。しかし今ではジーゼル機関車に変わっていた。

  旅行社の人と息子は、駅の出札口で話しをしているが、英語の知らな い私には何を言っているかさっぱり分からない。
  しばらくして窓口を離れてきた息子は、「明日のクアラカンサール方 面行きのシナラン国際特急列車は1、2等車ともワンシートしか空席が ないから汽車で行くのは無理だ」と言う。(注、1、2等車は窓の開か ないエアコン付きの列車で、3等車は各駅停車の鈍行列車の事をいう)
  この国際特別急行列車の乗車券は1ヶ月前から発売になり、遅くとも 1週間前までに買わなければ列車の本数の少ない事もあってとても手に 入れることは出来ないらしい。
  改札口には職員は誰もいないので駅のホームへ出てみた。構内にホッ パー車が止めてあった。旅行社の人に「何を積む車輌ですか」と聞くと 「セメントを積む車輌ですよ」という。「石灰石も採れるんですか」言 うと「セメント工場もありますよ」言っていた。
  旅行社の人は、「汽車が駄目ならハイヤーで行く事にしたら・・・」 と親切にホテルの観光タクシーに交渉してくれた。


11月16日(月)     

クアラカンサールへ
  タクシーは朝7時30分ホテルを出発。一路クアラカンサールへ向か う。クアラルンプールの市街を抜けると、最近出来たばかりと思われる 片側2車線のハイウエーに出た。
  鉄道より少し山側の人家のない平坦地を造成して盛んにハイウエーの 建設中で、タクシーの運転手は、マレー半島の最南端ジョホールの町か らタイ国との国境まで貫通する計画になっている、といっていた。
  通行の車輌は少なく、対向車もあまりないこの道路の最高時速は、11 0キロと表示されているが、運転手は思いきりアクセルをふみっぱなし で、ぐんぐんスピードは上がってくる。運転手の後ろで心配しながら見 ていると、スピードメーターは150キロから180キロに上がってく る。しかし慣れてくるにしたがって次第にスピード感覚がなくなって来 て回りの景色を見る余裕も出てきた。

  両側の平地と丘はゴム林とヤシの林の切れ間がない。ところどころの 高速道路の切れ間には部落もあり、バナナ畑の中に赤く錆びたトタン屋 根の、住居であるのか小屋であるかわからない地上2メートル程の建物 が建っている。
  家内は「こんなところの人達は何の収入で生活をしているんだろうね い」とポツリとつぶやいた。
  道端のところどころにヤシの葉で屋根をふいた小屋があり、バナナ、 パイン、ドリアンやマンゴーなどを紐で吊して売っている。店番の人 もいなければお客もいない。こんな風景は50年前と少しも変わってい ない。だけど買う人があるから店を出しているんだろうなあと思った。
  平野地からだんだん山が近くなってきた。息子は「大分山の中へ来ま すね」といった。何か少し不安があるのではないだろうか。

  ところどころの道路標識が「IPOH」と出る様になった。この字な ら俺にも読める、「イポー」の町が近付いて来ている。数十年ぶりに会 う知人が待っているかの様に血が騒ぎ始める。
  とうとう「kuala kangsar」 の標識も出るようになって 来た。これも判読出来る、間違いなく「クアラカンサー」の標識だ。昔 は「クアラカンサール」と呼んでいたのだが、「クアラカンサー」が本 当の呼び名かも知れない。
  タクシーは左折して海岸寄りに少し下りになって来て、町が見えるよ うになって来た。時計を見ると11時30分をさしていた。クアラル ンプールを出発してから4時間が過ぎている。

  ネムの木の街路樹が、道を覆うように大手を広げて昔のまま生えてい る。あれから50年の歳月が流れているというのに、幹の太さや枝葉の 茂りは全然変わっていない。益々充実して、葉の緑はあくまでも濃く、 ピンクの花の色は鮮やかさを増して、老木の面影など微塵にも感じさせ ない、なにものにも動じないこの力強い木の前に立っていると、人間の 弱さもろさ、体力の儚さをつくずく感じさせられる。
  タクシーの運転手は、「何処が見たいのですか」と言っている。私は 一番分かりやすいサルタン宮殿へ行ってもらう様にいうと運転手はうな ずいてまた走り出した。少し行くと左手に突然川が見えて来た。「あ、 ペラ川だ」昔この川の下流で、1メートルもある大「トカゲ」を採って いるのを見かけた事がある。

  車は丘を上り始めるとすぐ回教徒の寺院が見えて来た。黄金色に輝く ドームとその周りに立っている三本の塔が、荘厳の美しさを放ちながら ちぎれ雲の浮く青空へ突き刺さるように立っている。
  間違いなく昔のままだ。しかし川は丘を取り巻くように迂回しながら 流れている。何か私の記憶とは少し違う様に思われてならない。この丘 を上る前に橋を渡ったような記憶があるのだが、私の思い違いかも知れ ない。
  昔ここの寺院の塔に上り「サルタン宮殿」を見つけたのだからこの近 くに宮殿はあるはずだ。
  そこを出て少し行くと右手に銃を持った衛兵の立っている門を見つけ た。運転手はここが「サルタン宮殿」だという。どうも変だ、昔とは違 うようだ。運転手は再度衛兵に聞いて来て、この付近に元の宮殿がある 事がわかった。
  車に乗るとすぐのところにあったが、古い宮殿の本殿は取り壊してあ り、僅かに残った建物に、昔からのいろいろな資料を残して博物館として 保存してあると言う。
  他国の人達も4、5人見物している。私達も上って見ることにした。 歴代の王様の写真や衣類などが陳列してある。一回りしてくると、「あ 、あった」、50年前古い宮殿の謁見の間にあった王様の玉座が。我を 忘れていきなり手で触ってみた。昔のままだ。玉座の周りに垂れ下がっ ているカーテンは少し汚れているものの間違いなく昔のままだ。はるば る日本の果てから長旅をして訪ねて来た甲斐があった。
  昔、初めてマレーに来たときの事、和田、吉田と私、三人で偶然見つ けたこの宮殿を衛兵に頼んで見学させて貰った、あの絢爛豪華な宮殿の 事が現実のように蘇って来る。
  「よかった、本当によかった」。

  あのインパールの激戦に武運つたなく斃れた戦友も、よろめきながら も内地へたどりつく事の出来た戦友も、僅か半年たらずだったが20才 代前半の若者が「ビルマ」の生地獄が待ち構えているのも知らず、この 「クアラカンサール」の街で楽しい命の洗濯をして行ったのだった。
  「クアラカンサール」の街並みは、私の心に残っていた街と少しも変 わってはいない。大きなネムの並木、綺麗に刈り込まれた道路脇の芝生 には雑草一本生えていない。

  思い出多いこの街をもう少し隅々まで見て回りたかったのだが、「クア ラルンプール」からはるばる4時間も飛ばして来てくれたタクシーに、 急かされる様に後ろ髪を引かれる思いで「イポー」の街へ引き返した。


イポーへ
  「クアラカンサール」を発ったのが12時10を過ぎていた。お腹も空 いて来た。タクシーの運転手は方々捜してくれるのだが、思うようなお 昼を食べるところがない。とうとう「イポー」付近まで来てしまった。 ようやく見つけた所は、屋台より少しましな、西部劇にでも出てくる様 な食堂へ入った。
  ここは駅馬車ならずトラックや乗用車が軒並み止まっていて車を停め るに一苦労した。ヒヤムギをちぎった様な細長いご飯に、アジの空揚げ をのせ、上からだし汁をぶっかけた昼飯だ。だが、私がまずいと言えば 誰も食べない、無理して「腹が減ったら美味しいなー」と言ったものの 正直言って気持ち悪かった。

  腹ごしらえが出来たタクシーはイポーの街へ向かって走り出した。真 っ先に立ち寄ったのがイポーの駅。今汽車が着いたところだった。暑い ので窓を開け放った汽車は鈍行の3等車で、見るからにみすぼらしい旅 客車輌にはやはりそれに相応しいお客が満員だった。マレーシア第二 の都市、イポーの街を楽しみたかったのだが、帰りのタクシーの運転手 の事を考えてイポーの駅で帰ってもらった。

  イポーから「クアラルンプール」までの航空券は、日本出発前に予約 してあったので心配はなく、空港のロビーで時間の来るの待つことにし た。
  飛行機がスパン空港に着陸したのが、やはり夕方だった。イポーで降 り出した雨はまだ続いている。
  そこで拾ったタクシーが実におんぼろタクシーで、破れた屋根からは 雨が漏ってくる。シートベルトは確実に付けているものの、ところどこ ろ破れて縦糸ばかり残っている。旅行社の人が、マレーシアでは自動 車の車検はありません、と言った事が現実として知る事が出来た。


11月17日(火)     

市内自由見学
  今日はクアラルンプール最後の日、23時30分出発まで終日フリー タイム。観光ガイドにある名所を回ることになりタクシーを拾う。運転 手に頼んで郊外へと走りだした。
  運転手も良く知らないらしく、時々車を止めては地図を確認してまた 走り出す。初めにゴム園に到着する。見渡すかぎり整然と植え込まれて あるゴム林は実に見事だ。ここは観光コースに入っているゴム園で、私 達が着いた時は観光バスが発ち去ったところだったので、今盛んに白い 牛乳みたいな液体がゴム受けのコップに流れ落ちていた。
  マレーシアは世界の天然ゴムの45パーセントほど産出し、その量は 世界一だという事です。
  綺麗に刈り込まれた芝生の中に一抱えより大きい「ネム」の木が、八 方へ思いっきりひろげた枝先にはピンクの花をつけ、芝生の上にこぼれ 落ちている。
  熱帯樹に囲まれた西欧風のこじんまりした建物には管理人が住んでお り、私達をにこやかな笑顔で迎えてくれた。
  ここでは私が主役になりゴムの木の削り方やその後の処理の方法など 説明役に回った。ゴムの木は植林してから10年ほど育たなければゴムの 採取は出来ないと聞かされていた。しかし今では栽培技術も進み5年く らいで採取できると、運転手の人は話していた。

  ゴム園を出て今度は錫鉱の露天採掘場を見学すべくタクシーをとばす。 途中いつもの様に雨が降り出した、それもタクシーの屋根が破れんばか りに・・・。運転手に「この雨では錫の採掘場はとても無理ですね」と 言われてしまった。


チャイナタウンの屋台

  ようやく雨もやみ途中でタクシーを降りた所が「チャイナタウン」と いうクアラルンプールの名所の一つで、中国系の住民だけで占めている この一画は、縦横に通っている道路には露天商の屋台が車も通れないほ どあふれており、衣類、果物、骨董品、食料品、時計と、ありとあらゆ る物が雑然と売られている。
  この付近の雑居ビルは、ショッピングセンターになっており、ここで の買物は言い値で買う人はおらず、何処まで負けさせるかに興味があり 其の人の腕しだいと言うところだそうだ。


ブキットビンタン通り

  クアラルンプール最大の繁華街と言われているこの通りには、ホテ ル、銀行やデパート、大きなショッピングセンターがあり、ブキットビ ンタンプラザは半地下になっていて上り下りともエスカレーターが忙し そうにお客を運んでいる。
  このショッピングセンターの一画に、同居しているように日本の デパートが進出していた。ここの従業員は現地の人達らしく、日本人の 店員らしい人は見かけられず、店の商品もファッション関係がほとんど で上品すぎぎるせいかお客の出入りは少なかった。
  もう一つマレーシアプラザと言うショッピングセンターがあると聞い て、通りすがりの人に何人か聞いて見たが、みんな手を横にふって通り 過ぎて行き、とうとう私の英語は通用しなかった。


帰国の途へ

  南国情緒を満喫した5日間はあっという間に過ぎてしまった。
  20時30分、約束どおり旅行社の人がワゴン車で迎えに来てスパン空 港へ走り出す。
  23時30分、マレーシア航空88便は定刻に離陸した。500人 乗りのジャンボ機に僅か80数人程しか乗客がおらず、座席の余裕があ りゆったりとした機内では夕食と、朝方軽い朝食も配って来た。
  もう二度と来る事はないであろうマレーシアへどうした事であるか、 何か心残りがある様な気がして仕方がない。だがこれでお終いになる事 だろう。

  マレーシアよ「テリマカシ」(ありがとう)

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