再訪ミャンマーの旅
平成14年11月3日〜7日      関口 榮

 ミャンマーへの話が出たのは平成14年のお正月頃からだったかな?。インパール作戦で、生かされて生きて現在がある。あの激戦地でもあり、敬虔な仏教徒であるあの温厚な住民に愛着があり、まだ僅かながら体力が残っているうちにどうしてももう一度行って見たくなり、無性に気持ちが沸き立って来た。

 じゃあ一応5月の連休を利用して行く様計画を立てて貰う事になった。しかし現在はまだミャンマーへは日本からの直行便はなく、タイ国かマレーシア経由しかない。5月は連休で何処の旅行社へ連絡しても、ミャンマーへ乗継ぎ以前の飛行機は全部満席との事。それに4月5月はミャンマーでは雨季の真っ最中で、11月頃になれば雨季も明け乾季に入るのでその時期に計画変更する事になった。

 さていざ決行することになれば、もう少し体力がほしい。気持ちだけが先行しても足がどうしても遅れがち。普段は「パワーゴルフ、グランドゴルフ」町主催の体育祭にも積極参加しているが、いつでも最高齢者だ。でもいいだろう「枯れ木も山の賑わいだ」と平気で何も気にならない。

 11月に行くとすればまだ半年もある。ミャンマーの情報誌を読んだり、パソコンで情報を取りだして見ると驚いた。あの軍事政権で悪名の高いミャンマーに、こんなに多くの個人旅行者が行っているのだ。それも数日間、数十日もかけて方々の有名地点を廻っているのだから、よくもこんな暇人がいるものだ、と驚くのも無理はない。


 いよいよ当日が来た。長男夫婦と、私達老夫婦と4人で行く事になり、成田のホテルで一泊。午前10時30分発のタイ航空機は小雨模様の空へ飛び立った。私は飛行機搭乗は4回目で、10年程前初めてマレーシア旅行に行った時はどの感激はない。

 タイ国際空港まで7時間、15時30分(現地時間)に到着、時計の針を2時間戻さねばならない。乗り換え毎に入国、出国の手続き、なかなかややこしい。ようやく目的地ヤンゴンへ到着。タイ国までの機内は日本人が多かったが、タイからは外国人、特に欧米人が多いような気がした。

 飛行機から入国ロビーまではシャトルバス運行だが、私が乗った時はすでに満席、仕方なく吊り革を手に立っていると、少し離れた所に座っていたイギリス人らしい、金髪のご婦人がいきなり立ち上がり手招きをする。欧米人はレディーファーストと聞いていたが、これでは老人ファーストになってしまう。日本ではこんな光景はあまり見かけない、私は手を上げ会釈してお断りすると、彼女は少し微笑んでまた席に戻った。

 空港を出ると、ガイド付きの送迎車でホテルまで送ってもらった。私はガイドさんに「戦争中はビルマの人に大変ご迷惑をお掛けしました」と陳謝しましたが、返事が返って来ない。まだ若いから当時の戦争の事など身に染みて感じていないのだ、と思った。

また「タメサビビラー」(ご飯食べましたか)と言う言葉は悪い言葉ですか、と聞くと、「いい言葉ですよ、それはミャンマーでは朝の挨拶のことです」、という。なんだかビルマ語講座が始まったようだ(ビルマ語は少しは知っていると自負しているが、相手を侮辱した言葉があれば困ると思ったからだ)。「ミャンマーの人はいい人ばかりで」というと「今は、昔とずいぶん変わってきていますよ」との言葉が返って来た。

 まだビルマヘ来た、という感じは湧いてこない。大通りへ出ると車のラッシュ、この国の車は右側通行なのに、右ハンドルの車もあれば左ハンドルの車もある。自国の車の生産などは無く、各国の中古車を輸入して走っているのがほとんどだから仕方ないが、歩行者もまた横断歩道を無視し、その車の間を縫うように渡って行く、まったく危険きわまりない。戦時中、車など勿論人影もまばらだった。

 ようやく今日の宿、トレーダースホテルへ到着、立派なホテルだ。初めての海外旅行で泊まったマレーシアのホテルとは雲泥の差がある。


11月4日、前日と同じガイドさんに案内されて、ヤンゴン市内半日観光。最初に行った所はあの有名な「シュエダゴオンパゴダ」(黄金)だ。さすがに高い、見上げると先端がかすんで見えるようだ。門の両側に履物入れがあり、いかなる人でもここで靴と靴下を脱ぎ、裸足で境内に入らなければならない。これはミャンマー仏教徒絶対の法則である。ガイドさんに案内され本堂へ向かう、上る石段は普通の石と違う様だ。ガイドさんに尋ねるとこれは大理石ですよという。

 本殿に入り現地の人と同じように深々と額が床板につくほどお参りした。すると、瞬間どうした事か、頭の中から内蔵まで全身抜き取られた様に軽くなった。「ハッ」として体を起こすとまた元通りになった、どうした現象だったのだろう。58年前一緒に戦って武運つたなく戦死された戦友がよく来てくれた、と集まってくれたのだろうか?。

 本堂を出てパゴダの周囲の説明を聞きながら案内された、あれほど大きなパゴダの回りには、全部大理石が敷き詰められているのには驚いた。

次に行った所が、鉄筋コンクリート建てのかなり古い建物で、廻りに大きな立ち木を廻らせてある。”あぁ”これはラングーン大学だ、間違いなくラングーン大学だ。よくぞこれまで頑張って来てくれた、途端に58年前の事がタイムスリップして、体重32キロのマラリヤ患者に戻って、思わず目の前の木に抱きついた。

 インパール作戦に敗れ、前線からは毎日重傷患者、戦病者が貨物列車で送り込まれて来る。私ごときマラリヤ患者は病気のうちに入れて貰えず、一晩入院し薬を貰って追い出されてしまった。いろいろな事が走馬灯の様に思い出される。

絶対に構内に入ってはなりません、とのガイドさんの言葉をふり切って、いきなりカメラを持って走りだし、休憩中の大学生のスナップを撮って来た。ヤンゴン市内の半日観光は終わる。


 午後からは、いよいよ「シャン高原」にあるインレー湖へと飛行機で移動し、ヘーホーの飛行場へ着いた(あの頃は、ヘーホーに飛行場があるとは知らなかった)。ここから迎えの車でホテルへと下って行く。

 道の両側に鮮やかな黄色い花をつけた潅木が、随分長い道中続いていた。あの頃(戦争中)も咲いていただろうか、その時はまだ4月だったから花は咲いていなかったのかもしれない。運転手さんに花の名前を聞くと「クラシャ」とか言っていた。

かつてこの道は両脚を負傷した身をかばい、足を引きずりながらシャン高原の山を越えて来た道だ。道幅は変わりないが、昔は牛車の通る深い轍(わだち)があったのだが、今は真ん中だけアスファルトが無造作に敷いてあるだけで、その他は何も昔と変わっていない。こんな僻地で変わったとすれば、人の着る物が少し奇麗になったくらいなものだ。車のすれ違いにはどちらも片方は泥道にはみ出さねばならない、そんな道も夕暮れまでにはホテルへ着いた。

 ホテルのレストランで夕食を取っていると、突然パッと電気が切れて真っ暗闇になった。ミャンマーでは電力事情が悪いので停電は日常茶飯事のことで、店員がすぐに懐中電灯を持ってきて私たちを照らしてくれた。こんな雰囲気で食事が出来るのもいい経験と思って間もなく再び電気がついた。


 翌日朝食後船でインレー湖を周遊する事になり、ホテルから船着き場まで歩いて行く途中、お寺さんの托鉢に出会った。大坊主から小坊主まで20人くらい、一人一人ご飯を住民から少しずつ貰って行く。また寄進する人も毎朝炊くお釜(底がすこし平らな素焼きの壷)からは、真っ先に寄進するご飯は別に取っておく。これはミャンマー住民毎朝の行事で、お寺さん1日の食料となる。

 さて船着き場へ来てみると、昔と少しも変わっていない、違っているのは船にエンジンが付いている事だけ。だがこれは観光船だからで民間の船はいまだに足漕ぎの船も多い。

 船が走りだすと寒い、南方とはいっても標高の高い湖はさすがに寒い(約千メートル近い)。老妻は寒い、寒いと言って備え付けの救命胴衣を着て寒さを忍んでいたようだ。

船の左手には湖に柱を立てた、みすぼらしい水上生活者の家が点々とある。文明から取り残された国だと思っていたミャンマーにも、少しずつだが文明の波は浸透しつつあるようだ。湖の所々に細い電柱に、更に細い針金のような電線が張ってあり、水上生活者の屋根には小さな「パラボラアンテナ」のお皿も見えた。私達が戦争中敵の包囲から逃れるため、この湖を船で走った時とは、わずかに変わっているようだ。

 船の走る右手に浮き島があり、今新鮮なトマトの収穫が盛んに行われていた。肥料など一切使わず水深の浅い湖底の泥をすくい上げ農作業をしている。

 最初に船がついた所は湖上に建てられた寺院で、大分年代物のようだ。これだけの大きなお寺が、よくも湖の上に数十年も風雨にさらされ耐えられたものだ、と感心した。何の装飾もないこの古寺に、ただ一つ猫の曲芸があった。5、6匹の猫に餌で操り、1メートル程の高さの輪を飛び上がってくぐらせる、ただそれだけの事だがやはり曲芸であろう。

 次に行った所は湖上にある機織り工場で、若い女工員さんが十数人働いており、糸を繰る人、機織る人それぞれ分担で、トントン、カラカラと筬(おさ)の音は、日本では半世紀以前の音で、なんとなく郷愁を感じさせた。

 昔、私の見たインレー湖は4月の夜だったので、「ホタル」が素晴らしい光を放っていたのだが、この度は11月だから見る事は出来なかった。

 沖の方へ出ると、流れている水底に生えている水草が見える程水は透明だ。周囲の田畑では農薬も使っている様子がないので、この湖は汚染させず、永久にそのままにしておきたいものだ。


 午後からはホテルの車でヘーホーの飛行場まで送ってもらい、飛行場近くの食堂で昼食にする。注文の品が出来る間若者が寄って来て、各人にマッサージを始めた。料金を取られるのかな、と思っているとお客へのサービスらしい。私は内地から持って来た100円ライターを渡すと非常に喜んでいた。

 ヘーホーからマンダレー経由の飛行機で、ヤンゴンヘ戻るべくマンダレーの上空にさしかかると、いきなり長男が「大きな河が見える」という。私も見ようとベルトを外すと、スチュワーデスに制止された。あれは「イラワジ河」で、少し下流に「アバ」の鉄橋がサガイン(地名)の町に通じる鉄道や、自動車道にもなっている。更に下流にチンドイン河が合流し、その付近で「イラワジ会戦」という激戦があり、我が軍は徹底的に敵の戦車に引き裂かれ、私もその戦闘で両脚を負傷し、ようやく逃げ延びた苦い思い出の地だ。

マンダレーでは、お客の乗り降りの後再びヤンゴンに向かって飛行機は飛びたち、ようやく初日に泊まったホテルヘ着いた。


 翌11月6日は終日市内観光で、ホテルの車をチャーターして出る。平地はさすがに暑い。インレー湖では冬のセーターを着てもまだ寒かったが、首都ヤンゴンに来るとTシャツ一枚でも暑い、35℃以上あるのではないか。

 車は、アウンサンマーケットを横目に見て、途中花屋へ寄り日本人墓地への献花を買ってお参りに行く。広大な墓地の中央に、新しく建てられた慰霊碑は立派なもので、墓前には黄色い生花の花輪が立て掛けてあり、私達もその中央に持参の花を捧げてお参りをして来た。参道の傍らに、烈58連隊9中隊の「樋口昌平」さんの名前が書かれた新しい標識が立ててあった。近年に墓参に来たのであろうか。

次はホテルの近くにある商店街を散歩に出る。大通りの両側には立派な店が並んでいる。やがて「アウンサンマーケット」があり、薄暗い横路地には様々な商品が積み重ねる様に並べて売っている。ガイドブックにも書いてあったが、ここでの買い物は言い値で買ってはいけない、とあったがまさにその通りで、お客との中間に日本語の出来るミャンマーの若者が数人いて、店主との値段の交渉に当たっている。何やら薄気味悪い感じがして、「君達はどこで日本語を習ったの」と聞くと、日本語学校で習いました、と言っていた。

 58年間の念願だったビルマ再訪を、健康で果たせた事を心底から感謝している。

 帰路につく前に、ホテルのロビーで、ここのホテルのたった一人の日本人男性スタッフ杉村さん(大分県出身)に、「私も行った事はないのですが、この旅行にどうしてインレー湖を選んだのですか」と言われ、インパール作戦の激戦の事を話すと、「そうだったんですか、そういう話は初めて聞きました、私もこれからもっとミャンマーの事を勉強しなければ」、と言っていた。

 ミャンマーへ来て本当によかった。たくさんの英霊に会う事が出来て何の心残りもなく日本へ帰る事が出来る。帰りはこの度来たコースを逆の飛行機で家路へ向かった。

 

注 昔の事をビルマ、現在の事をミャンマーと表現しました。

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