1.上海から南方へ

中支よさらば
  中支宜昌の第一線から退り、上海付近に集結し終わったのが、昭和18年1月22日だった。
  我々鳩班は、太山廟に鳩を残して来たのだが、まだ聯隊通信班に所属 しており、和田 勇(寺泊)、関口 栄(南鯖石)、田中 信一(能生谷)、室川、諸 橋、村田、吉田、伊藤、藤田等と共にウースンの支那軍兵舎跡に缶詰 めされており、上海の街が目の前にあるのになかなか外出の許可は出な い。
  私達、和田、関口、田中は22次の現役兵補充で、戦地3年の最古 参兵だった。
  「俺達はここから別の船で内地へ帰還するが、お前達は南方行きだ」、
と凱旋袋を作り毎日初年兵を前にして内地へ帰った時の挨拶の仕方を 練習したり、土産には何を持ってゆくかなど専ら帰る話ばかりだった。
  宜昌出発の頃は内地帰還出来るものと信じていたが、上海に着く頃に なるとかなり情勢は変わって来ていた。
  1月24日、街には時折粉雪が舞っていた。
  その寒空のなか全員に夏服が支給され、私達の内地帰還の夢は完全に 消えてしまった。
  「本当は俺達も、南方なら一度は行って見たかったんだ」。
  と強がりを言っているが、しがみついている木から無理やり引き落さ れた様なショックだった。
  せめて一度内地へ帰り両親にこれまでの苦労を話し、その後ならあら ためて覚悟はできているのだが。
  さて南方行きと決まれば心を新たにせねばならない。指揮班に交渉し て外出が許可され、鳩班全員顔を揃えて上海の街へ繰り出した。
  これが支那最後の見納めになるかもしれない。街は余り綺麗ではない が、一般食堂、料理屋、土産物屋、おでん屋赤提灯もある。おそらく内 地からの出稼ぎ者、というより一旗上げるつもりで海外へ来ている人達 ばかりで随分景気の良さそうな店が多く、まるで内地へ来ているような 錯覚をおこす。
  まず腹ごしらえが先だ、と或る食堂へ入った。丼物、ライスカレー、 ラーメン、定食、色々あるが、みんな定食を食べることになり、出され たご飯の白いこと、農家生まれの俺もこんな白いご飯を見た事がない。
  初年兵は遠慮なく二膳三膳と食べるが、俺達古年兵はいざとなれば支 払いを持ってやらねばならぬ、と財布の中身が心配になり我慢した。
  いざ支払いになると、全員同じ金額だったのにはいささか腹の虫が苦 笑した。
  街の大通りは何も変わった事はないが、一歩路地へ踏み込むと何とも 薄気味の悪い街だ。
  通信班の「及川軍曹」は、「先生(シーサン)」「先生」、「ジツエン」「ジツエ ン」、と寄って来るので、実印なら持っているよ、というと「先生」・ 「ソノジツインチガウヨ」という。「この実印でなければ何だろう」と 皆を笑わせていた。とにかく船に乗る事になったのだから、色々持って 行かねばならん物が沢山ある。それぞれ手分けして花札を買う、酒も必 要だ、と僅か3、4時間の外出であったが最後となるかも知れない上海 の街を思う存分楽しんだ。


乗船
  1月27日、我々を乗せた船は行く先を知らされないままウースンを出港した。
  甲板の上では手に息を吹き掛け、足踏みをしながら船倉へと降りて行く。
  私達の乗った輸送船は北海道の石炭を運搬する第三夕張丸という、5 千トンの貨物船だった。「魔の海」と呼ばれる玄海灘に出ると揺れが激 しくなり、頭上から石炭の粉が降ってくる。飯盒は船倉の隅へ行ったり 来たり、船に弱い私は完全に酔ってしまった。
  漸く船の揺れが収まった頃には台湾高雄の港へ入っていた。
  甲板へ出て見るとお天気は上々、頬を撫でる潮風は青葉若葉の香りが して23才の心を躍らせる。
  粉雪の舞っていた上海と、台湾との気候の差はたった一夜にしてこん なにも違うものか。
  船は岩壁から大分離れた港内に停泊しており、甲板から見下ろすと数 隻の手漕ぎの民船が輸送船の回りを行き来している。
  竹竿の先に網を付けて物売りに来ており、話がまとまると網にお金を 入れて物と交換する。「バナナ」一篭日本円で5円だというので早速皆 から集めた5円で「バナナ」一篭買って船倉へ降りる。
  バナナは青く新鮮で、皆に分配するのが待ち遠しく1本頂戴する。
  「こりゃあ何じゃあ」 皮は堅く中身も渋い。「奴等にだまされた」 仕方なく船倉の隅に押しやって置いた。
  その頃より敵の潜水艦出没が激しくなって、高雄での停泊が2、3日 伸びる事になった。高雄を出港してからは海軍の駆逐艦が護送してくれ て心強かったが、いつの間にかその姿も見えなくなった。


玄海灘のいたずら
  隣の指揮班では宴会が始まった、我々も潜水艦にやられる前に上海か ら持ち込んだ酒を呑むか、と一升瓶を探すが見当らない。さては指揮班 の連中にやられたか。気のせいか俺達を見る目が笑っているようだ。
  仕方ないが俺達の酒だという証拠があるわけではない。
  玄海灘の荒波が、一升瓶を指揮班の方へ転がしたのかも知れない。
  酒を探していると、船倉の隅に放置してあった「バナナ」が柔らかく なっているのを見つけた。2、3日でこんなに柔らかくなるのなら、無 理してあんな渋いのを食べなくとも良かったのに‥‥。


黒 潮 ?
  赤道近くになったのだろうか、海は真っ黒く鏡の様にさざ波ひとつた っていない。
  これが黒潮というものか、と見とれていると飛魚が4、5十匹海面か ら飛び上がり、数十メートル先の海面へ吸い込まれていった。
  何事もない穏やかな航海が続く。


昭南島へ(現シンガポール)
  夜空は晴れて南十字星が見えるようになってきた。船内では色々な情 報が飛び交ったが、ガタルカナル撤退援護の話も下火になって何処かへ 変ったらしいとの噂が流れ始めた。しかし何処へ行くのかは誰も知らな かったが、入港した所が昭南島とわかると、皆大騒ぎとなり甲板へ飛び 出して行った。
  港内には無数の小島があって濃緑の木々の間に綺麗な家が見える。
  港からの丘はゆるやかな傾斜になっており、頂上まで南方特有の緑の 林のなかに、赤、黄、白と原色のトンガリ屋根が所狭しと並んであり、 庭には椰子の木も間隔よく植えてある。
  初めて見る南国の風景は何と説明して良いやら、お伽の国とはこんな 所をいうものか、と、夢見ごこちになった。
  岩壁に着いた船の甲板から「和田 勇」が降りて来て、
   「オーイ鍋の尻みたいな顏をした黒ん棒がいるぞー」という。
     「そんな黒い人間がいる訳がない」。
と言いながら半信半疑で私も甲板へ上がってみて驚いた。黒いという よりまるで黒光りしており、本当に人間なのか、と目を疑った。

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