2.マレーの日々

南の島へ上陸
  昭和18年2月10日、昭南島(現シンガポール)へ上陸した部隊は、 アレキサンドリヤ兵舎に落ち着いた。兵舎の前にある椰子の木には、緑 の実を鈴なりにつけており「無断で取るな」、と書いた札が立ててあっ た。
  兵舎では慌ただしく糧秣の支給をうけ、その日の暮れかかった頃シン ガポールの駅を、マレー半島の目的地に向かって汽車は出発した。
  昭南島と、マレー半島との接点、ジョホールバル水道を渡る頃は既に 車外は真っ暗だったが、ジョホールの街は電灯がこうこうと灯って、都 会らしい感じがした。
  マレー半島の西海岸鉄道の夜汽車は小さな駅には殆ど停まらず、途中 マレーの首都クアラルンプールを発車してからは、目的地クアラカンサ ールの駅まで直行した。
  下車して見ると夜明けまでに少し時間があるのか、街はひっそり静ま り返っており、客待の夜店のあかりだけがほの暗く灯っている。
  クアラカンサール駅の東方、ペラク川を渡った小高い丘に、点々と立 つ白亜の建物の一角がわが通信班の宿舎となり、鳩班もその一棟を割り 当てられた。
  芝生を綺麗に刈込んだ庭にはカンナの花が咲き乱れており、裏庭へ廻 って見ると油椰子の葉陰からクアラカンサールの街並みが眼下に広がっ ていて、街の映画館からはボリュウム一杯の音楽が聞こえてくる。
  この豪奢な建物は元英国総督府高官の避暑地の建物だとの亊だった。
  部屋へ一歩入ると電灯がついている。
  誰かが、
  「オーイ電気が来ているぞー」
  と怒鳴る声がする。
  天井には大きな扇風機がゆっくり回っていて「トイレ」は勿論洋式の 水洗トイレだが、面白い事にシャワーと、トイレが同室だったのには驚 いた。
  中支宜昌の山の中で敵と対侍しながら、壕のなかで3年間のランプ生 活を過ごして来た我々にとって、乞食が一夜にして王様になった様な気 分で、数ヶ月後に来る苦闘など知る由もなく楽しい日々が続く。


サルタン宮殿
  落ち付いて暫くした或る日、和田、関口、吉田の3人でゴム林へ猿を 撃ちに行くか、と話がまとまり、それぞれ小銃を肩に出掛けた。
  ここは赤道に近いのか太陽は肌に焼け付く。しかし一歩林の中に入る と、とても爽やかさを感ずる。
  ゴム林を抜けると、左手に凄く豪華な建物が見える。門の前には小銃 を持ったマレーの警察官が立っており、手真似を交えて尋ねると、ペラ ク州の王様の宮殿とのことだった。
  物珍しさも手伝って傍らの警察官に案内を乞うと、暫くして召し使い が出てきて、私達の小銃を警備の警察官に預けて宮廷内へ案内してくれ た。
  玄関前の両脇には直径1メートルもある大きな大理石の柱が立ってお り、その床も大理石が敷かれている。
  宮廷内の廊下には赤いペルシャ絨毯が敷かれ、天井から豪華なシャン デリヤが吊り下がっていて一遍に度胆を抜かれてまった。
  階段を上がる頃には完全に足がすくみ、これはえらい処へ来てしまっ た、と後悔したが間に合わない。
  いよいよ度胸を決め、俺は日本の軍人だ、と自分の心に言い聞かせ陸 軍のドタ靴で赤絨毯を踏みしめた。
  案内人に各所を見せて貰い、金、銀、ダイヤモンドや、素晴らしい象 牙細工など装飾品のある謁見間に通された頃は大分落ち付きを取り戻し てきたのだが、そこで「アルバム」のような記帳を出され署名して下さ い、といわれ、めくってみると日本軍の高官、山下奉文、寺内大将など の他、世界各国の名士らしい英語が書き連ねてある。瞬間体中の血が一 気に頭へ昇り詰めて、どうやって署名してきのか今でも分からない。
  逃げるように門を出た左手の塀に、「日本軍人軍属の立入禁止」と書 いた大きな看板が立ててあった。
  中隊へ帰り、「指揮班の及川軍曹」に其のことを話すと、「貴様等、憲 兵に見つかったらどうするんだ」、と、ひどく叱られた。


ドリアンの実
  或る日、通信班の演習の帰り、小休止をした大木の下で何気なく見る と、太い幹の中程に俵みたいなイボイボのある実がいきなりなっている。
  木の枝先になるのなら分かるが、幹にじかになる木の実など見たことが ない。
  その場は大勢いるので取るのを止め、夜になって和田と2人で現地人 に見つからないように盗って来た。持って来てみたものの食べ方が分か らない。あくる日、遊びに来た現地人に教わった1週間が待てず、4、 5日で割って見た。中身はクリーム色で芳香が強く甘味もあり、大きな ドングリのような種をつつんでいるいる実は、舌もとろけそうだ。
  それは「ドリアン」という名の果物の王様だとのことだった。


外出の訓示
  日頃愉快な五十嵐中尉の外出に対する訓示があるという。皆何の話が あるのか、と半分緊張して整列していると、当番兵が小さな紙づつみを 1人2個づつ配る。つつみを見て中身を知ると、あちこちから小さな笑 いが出てきた。軍刀が地に着く程の短身の中尉は、目で笑って大きな声 を張り上げ「黙って話を聞け」と、柄先の丸い円ぴ(軍隊の折り畳みス コップ)の柄に何やら被せながら、先端には絶対に空気を入れてはなら ん、と真面目顔で説明する。「今笑っているものは後でどんな事になっ ても絶対に俺は責任は持たん」。と破顔一笑で訓示は終る。


クアラカンサールの朝
  クアラカンサールの街は、駅からの幹道はもちろん、ゴム林の中の細 道まで全部舗装されている。両側から巨大なネムの並木で覆われ、道路 脇の芝生も綺麗に刈り込まれている。
  街の中心地の大通りの朝は、通勤や買物にでる人達の自転車で賑わっ ており、特に若い娘さん達のカラフルな服装と、曲線を浮き彫りにした 裾割れチャイナ服の姿態が眩しく目に飛び込んでくる。
  中支宜昌時代は軍衣の汚れも気にならず、敵前の壕の出入りが激しい のでこまめな手入れは必要としなかった。しかし綺麗な街に来ると自然 に身だしなみも良くなってくる。


マライの一日
  鳩のいない鳩班は、訓練と言っても専ら小銃訓練が多く、俺達最古参 兵は訓練をサボって、ネムの並木の下で初年兵の訓練の終るのを待って いる日が多かった。訓練終了後の駆け足には俺たちも一緒に走って帰り 「訓練終了」「解散」の声に初年兵は一勢に俺達古参兵に走り寄り、巻 き脚拌を取って背中の汗を拭いてくれる。汗でビッショリになった軍衣 袴は夕方までに洗って、綺麗にたたんで持って来てくれる。
  自分たちも初年兵時代には同じ事をやって来たのだが、こんなにまで して貰って罰が当るような気がする。


ワニの木登り
  兵舎の下にはペラク川が流れていた。川辺の木の下では犬を連れた現 地人が竹竿で何かを追っていて、逃げ場を失った獲物は木から落ちる。 なんと1メートルもあるワニだった。こんな所にもワニがいるのか、と 恐ろしくなり、兵舎に帰りこのことを話すと大「トカゲ」だという亊で みんなに笑われた。


書留郵便
  ある日、私の手元に1通の書留郵便が届いた。こんな南方の果てまで お金を送ってくれる訳がない。不思議に思って差出人を見ると、従兄弟 の岡村吉治の名前が書いてある。
  さては内地の我が家に、何か変わった事でもあったのでは無いか、と 悪い予感が走ったが、読んでいる内に「悪いことをした」と、後ろめい た気持になって来た。
  手紙には故郷の近況から、父母、兄姉妹の安泰が書かれてあり、特に 父は、最近戦地からの手紙が来ないが、「栄は元気でいるだろうか」 と、心配しているから忙しいだろうが時々手紙を出しなさい、と書いて あった。
  文盲の父母は手紙を書くことはできず、叉届いた手紙を読むことも出 来なかった。親であれば子供の安否は一刻も早く知りたい。しかし其の手段を持たな いもどかしさを従兄弟の岡村吉治に話し、確実に本人の手元へ届くであ ろうこの書留という事になったのかも知れない。
  中支にいた頃は随分便りを出したものだが、戦地生活が長くなるにつ れて、最近は殆どご無沙汰勝ちだった。兄からの手紙はたまに来るが其 の返事も書く回数が少なくなっていた。
  両親の心配をよそに、「どうせ俺達は女房子供がいる訳じゃ無し、死 んでも泣いてくれるのは火葬場のカラスくらいなもんだ」、と呑気な事 を言っていた申し訳なさに胸がつまる……。


鳩班の解散
  昭和18年3月末頃、新しく師団の編成ができて、58聯隊の編成 替えも行われた。我が歩兵58聯隊通信班も、新しく通信中隊として 発足し今までの通信班長、五十嵐末治中尉が中隊長として就任された。
  それぞれの中隊から派遣編成している我々鳩班は解散となり、吉田、 伊藤(いずれもコヒマで戦死)そのほか、藤田の3名は残留となり、 私は中支当時の原隊である速射砲中隊へ帰って来た。
  速射砲中隊の兵舍は、クアラカンサールのマレー大学の校舎が割り当 てられてあった。
  速射砲から通信へ派遣されて3年は過ぎている。そこには初年兵当時 からの無二の戦友、古川義信(戦死)、井上源治、赤掘市治、小野塚兵治 (戦死)等が、私を暖かく迎えてくれて、本当に嬉しかった。
  以後、彼等とはインパール作戦で生死を共にする事になるのだ。


マレーの速射砲中隊
  嵐の前の静けさというものか、マレーでは本当に楽しい命の洗濯の日 々が続いた。数ケ月後に来るインパールの激戦など知る由もなく。
  毎日の演習も、厳しい中にも楽しさがあった。
  マレーでは少数の「共産ゲリラ」がおり、それを討伐する名目の演習 が多かった。目的地までの行軍も聨隊本部の経理班が先行し、木陰での 「コーヒーのサービス」も行き届いており、喉をうるおす。時には観光 的な演習も多くあった。
  ジャングル内の夜間演習となると大変だ。昼なお暗いジャングルの夜 は、前の兵隊の姿が全然見えない。地面に「ホタル」の様に光る木があ り、それを前の兵隊に付けてやっと行動する事が出来たが、方向が全然 分からず明け方になり、ようやくジャングルを抜けだすと、そこにはア スファルトの道がスコールに濡れて、大きな「サソリ」が草むらから這 い出していた。


コーヒーの店
  日曜日の朝は朝食を控え目に兵舎を出る。街の近くには、竹の柱に椰 子の葉で被ったマーケットがあり、見たことも聞いた事も無い珍しい南 方の果物が、ズラリ、と並んでいる。言葉は分からなくとも手真似で結 構話は通じるもので、広いマーケットを一巡りする頃は試食の果物で満 腹となる。
  街外れに、華僑の経営する店で、「栄達」と、「双獅園」という名の レストランがあった。
  ヒョロ長い椰子の木が、南方特有の青空へ吸い込まれる様に立ってい る、そんな風景にマッチした綺麗な建物で、店内も清潔で、そこには色 白の可愛い華僑のウエートレスがおり、彼女の行く先々には店内の兵隊 の視線が四方から伸びて、唯一杯のコーヒーを持って来て貰うだけで何 となく胸のとめきがコーヒーを持つ手に伝わって来る……。
  色々な事はあったが、毎日毎日を楽しく過ごした。
  70余年の人生の中で、こんなに楽しく過ごしたことは他に無い。
  年も若かった事もあろう、しかし、後に来るビルマでの戦闘が余りに も悲惨だっただけに、生涯忘れることの出来ない楽しい思い出になって いる。
  昭和18年6月4日、楽しく過ごした4ケ月余の思い出を残して、ク アラカンサールを後にタイ国に向かって出発した。

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