3.タイ入国〜泰緬国境へ
タイ国へ
−−泰緬鉄道とは、タイ国のノンブラドックの町からビルマのタンビ
サヤという既設鉄道の駅まで414キロメートルのことをいう。
戦後英国で製作した問題の映画、「戦場に架ける橋」の舞台にも
なったあの「ケオノイ河」沿いに、泰緬国境へ向かって汽車は線路をき
しませながら走り、50キロ程行った所の「カンチャナブリ」という駅
に着いた。
泰緬国境の苦難 我が中隊は各小隊に速射砲一門づつ馬に引かせ、其の他弾薬、糧秣な どは牛車を使って行く事になった。 最初の2、3日は牛や馬も頑張ってくれたが、日が経つに連れて牛の 座り込みが始まった。 この豪雨の中ジャングルを切り開き、山を崩して谷を埋め、路線を作 っているのだから道と言ってもまるで田圃か沼地と言ったほうがよい。 そんな所を車を引かせるのだから牛や馬も可愛想だ。しかし兵隊も腰 から下は泥沼から這い上った様な格好で頑張っているのだから、牛にも 頑張って貰わねばならん。 牛が駄目なら兵隊が分担して運ばねばならず、其の兵隊も自分の背嚢 だけでも40キロを背負っている。頼む、何とか頑張ってくれ、と哀願 するが座り込んだ牛は、大きな目玉を「ギョロリ」とさせてこちらを睨 む様に座ったまま……。 赤堀君の発案で、牛の口と鼻を同時に押さえて呼吸を止める、牛が苦 しまぎれに飛び起きるのを待って一斉に竹の棒で尻を叩きながら歓声を 上げる。竹の棒は元まで割れるが黒い牛の尻は赤く腫れ上がって、血さ え出なくなっている。その作戦も1日と続かなかった。 今度は誰かが牛の尻に火を付ける事を考え出した。突然の熱さに飛び 起き様とするが、最早精魂つき果たした牛には其の気力もなく、唯恨め しそうに向けた牛の顔には、心なしか目が潤んでいた。 とうとう此の牛も泰緬国境踏破の犠牲になってしまったか。 私はホトホト困り果て、もう何をいう元気もなく泥沼の地面に座り込 み、霧雨の降りしきる天に顔を向けると「ポロリ」、と涙がこぼれ落ち た。 自分の身一つで行軍できる小銃隊がつくづく羨ましく思えて仕方がな かった。 其の日は4里(16キロ)の目的地まで行けず、鉄道隊の宿舎に泊め て貰った。
作業隊 路線未着工の道はジャングルが伐採されており、行軍には割合楽だっ た。しかし連日の雨で道はぬかるみ、急な山坂が多いので牛馬の用はな さず、専ら人力搬送に頼るしかなかった。 こんなに苦労して行軍をしている兵隊には、可愛想だが牛の犠牲など 考える余裕はなかった。 鉄道隊、俘虜、現地人達の作業は、ツルハシ、スコップ、それにモッ コ、文字通りの人海作戦だ。標高2000メートルの山々、人類未踏の ジャングル、悪疫病魔にさらされながら、僅か1年たらずの期間に完成 させ様とする内地にあって指揮する大本営の命令に無理があり、当然死 者の数が多くなる。 上半身裸、それも前のほうは無事だが、お尻は丸だしで腕に刺青をし た、英国、オランダ、豪州軍の俘慮達の表情は意外と明るく、口笛を吹 きながら全身泥まみれになってモッコを担いでいる姿に、我々はどうし ても彼等の心境を理解する事ができなかった。 鉄道隊の話では、彼等は必ず友軍が迎えに来る事を信じているとの事 だった。 (少し大袈裟に思えたが、この作業隊の話しでは枕木3本に人間1人 の割りで死んでいる、と聞かされた事があった。)
−−後日調べた記録によれば、日本軍千人、俘虜1万人、タイ、ビ
ルマ人3万人の死者が出たという−−
害虫と悪疫 此の辺に来るとジャングルも竹薮が多くなって来た。竹と言っても群 生しているのではなく、1株ごとに密生しており、しかも節々に刺があ り、中身は無垢で穴がない。その株の間を縫う様に行軍するのだが、こ んな所に虎が出るのではないか、と不気味な気配が漂う。 虎には出合わさなかったが胡麻粒ほどの「ブヨ」に悩まされた。この 虫は人間の露出している部分を所構わず襲って来る。目、口、鼻、耳の 中、戦闘帽の中まで入って、気も狂わんばかりに痒い。泥手で掻きむし るので頭や顔は泥だらけだ。 来る日も来る日も腰から下は泥だらけ、宿舎へ着いても軍衣を洗う時 間がなく、割り竹で張りついた泥を落とし、着のみ着ままで焚火をしな がら寝る毎日が続いた。 その頃から腰の周りや尻の辺が痒くなり、夢中になって攪きむしると明 くる日には粟粒ほどの化膿になり、それが次第に熱帯潰瘍となって腰を 降ろすと軍袴が尻に張りつき、それを剥がすにまた一苦労する。 苦難の泥道もビルマ側からの工事も進み、線路には機関車の姿も見え て来た。 苦労の道も、タイとビルマの国境が何処だったか分からないうちにタ ンビサヤに着いた。
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