4.ビルマ入国〜エウー集結

ビルマの平原地
  タンビサヤからビルマ鉄道に乗り替え、モールメンに着いたのが昭和 18年7月12日で、モールメンを経てベグーの町に設営する亊になっ た。この街は川沿いにあってなかなか景色のよい町だ。街外れに有名な 釈迦の寝像があり、50メートルもある巨体を横たいて線香の煙の絶え 間がなく、仏教国ビルマ人の信仰の的になっている。
  私は国境踏破の後遺症、熱帯潰瘍の治らない身体で、1週間の休養の 後、北部ビルマの「イウー」地区に先発設営隊として7月19日ペグー を出発した。
  聯隊甲副官、長家大尉を設営隊長として、各中隊から10名位づつ選抜 され先行することになった。
  速射砲中隊では小田少尉を長として、小野塚兵治、関口栄、村田勇、 滝沢義一、渡辺正八、渡辺国一、黒埼孝吉、其の他2名が同行する事に なった。
  ビルマの汽車も薪をたいて走るので火の粉が飛び散り、無蓋車輸送の 兵隊は軍衣を焼く心配があった。
  敵に制空権を握られているビルマの汽車は昼間の運行は出来ず、夜間 のみの運行なのでなかなか目的地への到着は円滑に行かない。


オッパイパゴダの由来
  途中爆撃にも合わず古都マンダレーに到着した。今の首都はラングー ンに在るが、現在は昔の面影を残すお城と、其の周囲にお堀があり、ビ ルマ第二の都会となっているが、日本軍の爆撃で無惨に壊されて見る影 もない。昼間でも人影はまばらで民家もあまり見当らない。
  我々は通過部隊宿舎に泊ることになり、そこでは酒もあって久し振り に楽しい一夜を過ごす事が出来た。
  明くる日、イラワジ河の渡河点に着いてみると「アバ」の鉄橋は橋脚 だけを残し、日本軍の進撃阻止のため爆破されてあった。
  現地人の話しでは、英軍は撤退の際必ずここは取り戻すから、橋脚だ けは確保しておくのだ、と、言っていたとの事……。
  ここでも英軍の自信のほどを見せつけられた。
  船舶工兵隊の鉄艇で7、800メートルもあるイラワジ河を渡り、対岸 の「サガイン」の町に上陸、兵站宿舎に2日間休養する事になった。

  (後にこの町は、インパール作戦の撤退患者で地獄絵図を繰り広げら れる所だ。)

  サガインの町は緑の多い大きな街で、シエボー方面に行く鉄道と、エ ウー線の分岐点であり、また、ラングーンからイラワジ河を船で塑航す る物資の集積地で、日本軍の軍事的にも重要な地点となっていた。
  そのため敵機の爆撃も毎日激しく繰り返し行なわれた。
  ペグー出発以来始めて2泊の休養とあって、馬車で「サガイン」の街 を見学に出かけることになった。
  ここの馬車は、砂利道のせいもあるが非常にクッションが悪い。その 上座席は板張りとなっていて走り出すとお尻の潰瘍が痛い。
  仕方なく我慢して乗っていると、街はずれに見慣れない形の変わった 「パゴダ」が見えて来た。
  馬車の馭者はその「パゴダ」の由来を詳しく説明してくれた。

  −−昔この地方を支配していた王様は、若くして美しいお妃を亡くし、 嘆き悲しんだあげくお妃の乳房を型取って建立したのがこのバゴダで、 カンムドウパゴダというが、通称オッパイパゴダと呼んでいる。−−

  そう言われて見ると、なるほどオッパイの形にそっくりだ。
  やがてサガイン2日間の休養も終わり、エウー線の目的地に向かって 出発した。
  クッションの悪い馬車が、潰瘍の膿を全部出してくれたのか、その頃 から自然と治って来はじめた。途中「モニワ」の町に下車し1泊する事 になった。


モニワの町
  この町は、小京都を思わせる様な静かな町で、裏手には、「チンドイ ン」河の豊かな水をとうとうと流している。街の中心部は爆撃により殆 ど廃墟と化していたが、ここはこの地方の仏教信仰の中心地となってい た。
  (地方の村々で「モニワ」はどうなっているか、と良く聞かれた ことがあった。)


異様な光景
  7月30日、エウー線の終点に到着した。ここは小さな田舎町だが、 何処となく落ち付いた雰囲気のある街で、辺りは草むらが多く、隣村へ 行くにはかなりの距離がある。
  この駅の付近で異様な光景に出合った。私達の降りた汽車は折り返し エウーの駅を緩やかに走り出すと、線路の両側にいたビルマ人が何やら 大きな幟を持って汽車を見送っている。汽車が近付くと其の人達は一勢 に両手を上げて「バンザイ」の様な仕草をしている。
  車窓から身を乗り出して盛んに手を振っている人達はみんな泣いてい る様だ。
  汽車が近付くと、見送りの中の一団が汽車を追いかけて走り出した。
  子供や若い奥さんだろうか、また年老いた親か、皆、目を真っ赤にし て涙を拭こうともせず何やら叫びながら走っている。
  其の人達の持っている幟には「国境建設奉仕隊」と書いてあった。
  そうか、この人達もあの生地獄の泰緬鉄道建設に狩リ出されるのか。
  残された親子も、作業の苛酷さを噂に聞いて知っているから、泣いて 別れを惜しんでいるのであろう。果たしてこの人達の中で何人生きて帰 れるだろうか、内地の出征兵士を送る駅頭の光景が浮かんで来た。


タダウの部落
  エウーからの道は細いデコボコ道で、両側には雑草と一緒にピンクの 綿毛を付けたオジギ草が群をなして咲いている。軍靴でさわると一勢に 葉を閉じて、私達に挨拶している様だ。
  ここは数十戸の集落となっていて、殆どの家は竹の柱に椰子の葉で屋 根を葺いてあり、窓のない粗末な家が多かった。
  村には井戸が一箇所しか無く、煉瓦で積み上げた井戸の回りには「メ マー」(主婦)達の社交の場となっていて、言っている言葉はわからな いが話に花が咲いている。昔からある井戸端会議という日本の言葉は、 或いはこの国が先祖かも知れない。
  私達は「マンポイユ」さんの家を兵舎として借りる事になった。
  一見2階に見えるこの家も、実は高床式の家で、床下は牛の寝床にな っていた。家族は裏手の米倉に住まいを移し母家は私達に住ませてくれ た。
  家主の「マンポイユ」さんは、体格はがっちりしており、垂らせば腰 までも来る髪を無造作に束ねている。ビルマ人は男女とも髪を長く伸ば しているので、始めのうちは男女の見分けに苦労した。
  妻の「マコー」さんは、背が高く骨太で、お世辞にも美人とは言えな かった。一人息子の「マンコイマン」は5才位の我がまま盛りで、親の 言うことを聞かず、時々「コイマン、コイマン」と叱られて尻を叩かれ ていた。
  ビルマの男性は名前の前に「マン」と呼称をつけ、女性には「マ」と いうらしい。隣の家には「マンポーイ」という青年がおり、夕方になる と毎日遊びにきて、彼に日本語を教えたり、またビルマ語を私達が習っ たりした。時には南十字星を見上げながら彼の将来の抱負を聞いたり、 日本のことを語って聞かせたりして、熱帯の夜の更けるのも忘れて語り 合ったことも度々あった。
  英国の植民地だったビルマは、現地人と白人とは一定の距離をおき、 絶対に同等の対話や、レストラン、集会所などあらゆる処での同席は許 されなかった。
  日本の兵隊が来てからは、ビルマ人大衆の中に溶け込んで、汚い家の なかまで入り込み、同じ釜の飯を食べたり、手真似足まねで話をするな ど信用され、あらゆるところで好感を持たれた。
  さて、道一つ隔てたところにビルマ酒を作っている家があって、そこ の主人は大学を出たというインテリーだった。彼は酒が強く、ある日小 野塚兵治君(コヒマで戦死)と飲みくらべをやったが、さすが酒豪の小 野塚君も頭を下げたという。
  その妻がビルマ人には珍しく色白で綺麗な顔形をしていて、一目見た だけで気も遠くなるほどの美人だった。その容姿を自負してか凄く気位 の高い女だった。一人娘の「マッケンセ」は6才位で母親に似て器量も よいが、なかなか気の強い女の子だった。
  我々設営隊は真っ先に便所の設置から取りかかった。衛生観念の乏し いこの国の農村部は、殆どの家には便所がない。人が草薮に入って行く と犬が後から付いて行くという話にはうなずけるものがある。
  「マンポイユ」さんは大の親日家で、私達の作業の終わる頃を見計ら って「ブランデーとおつまみ」(そら豆とお茶の葉を油で炒めたもの) を毎日持って来てくれた。
  1週間後に来る予定だった本隊が大巾に遅れ、全員集結し終ったのが 1ヶ月後だった。
  部隊が到着すると「タダウ」の小部落も俄然活気付いてきた。しかし 今度はいままでの様なビルマ人との家族的な生活が破られ、私達が1ヶ 月間かかってやっと築き上げて来た部落民との「コミュニケーション」 が崩される様な事件が度々あった。その都度私が中に入り、たどたどし いビルマ語を駆使して部落民との調和をはかった。


愛国の花
  或る日、エウーの設営隊本部より映画会を開催するから見に来る様に との連絡があった。
  南方へ来てから映画など始めてのことだ。「愛国の花」という題名か らして、劇映画だろうか、まさか「メロドラマ」など来る訳はない。
  あれこれ想像しながら会場ヘ早々と行き、上映開始をいまや遅しと待 った。
  いよいよ上映された画面には、男女大勢の合唱隊が、愛国の花という コーラスを、

    「真白き富士の気高さを
           心の強い盾として
     御国につくす女ならは
           輝く御代の山桜
              地に咲き匂う国の花」

と唄っている、この歌が終ると本題の映画になるののだろう、と、最 後まで見ていたが、とうとう唯ただ歌の宣伝だけで終ってしまった。
  期待していただけに、裏切られた時の虚さが大きく胸にこたえ、帰り の2キロの夜道は暗く遠かった。


黒崎君の武勇伝
  部隊が着いた数日後、中隊内で大変な事件が起こった。
  クアラカンサール出発以来、泰緬国境の苦難と数ヶ月にわたる行軍の 後、ようやく一応の目的地エウーに無事集結が終った事を祝って、各小 隊ごとに会食をする事になった。
  皆それぞれ料理の腕をふるって会食も終わりになる頃、黒崎孝吉(現 存)がこっそりやって来て、今晩やるから22次兵は全員集まってく れ、といって来た。私は何のことか良く分からなかったが同年兵で一杯 やるのかな、と軽い気持ちで飯盒に天麩羅を入れ、「源ちゃん行こう か」と井上源治を誘ったが、彼は余り良い返事がなかったので私一人で 出かけた。
  黒崎君の所へ行って見ると異様な雰囲気に驚いた。あちらこちらで、 ゴソゴソ、ヒソヒソ、これは何か始まるぞ、と悪い予感がした。
  若林見習士官が私を見つけて、「おー関口来たか、これからは作戦が 始まるとこんな呑気なことはできん、今日は大いに飲もう」、となかな かのご機嫌である。
  さては何かあるぞ、と思った私の予感が的中してしまった。
  誰かの合図で、回りにいた兵隊が一斉に見習士官に殴りかかる。「上 官に向かって何をするか」、と強気をいっていた彼も多勢に無勢とても かなわん、と姿を消してしまった。
  殺気だっている兵隊は彼を捜すが、とうとう見付ける事が出来なかっ た。
  巻き添えをくった形になった私は、この場にいたからには言訳が出来 ず、困った事になってしまった。井上源ちゃんはこの事を事前に知って いたのだろうか。
  上官侮辱の罪で重営倉は間違いない、と覚悟をした。
  さて、明くる日公用で聯隊本部へ行くと、通信隊の神林伍長に、
   「速射砲はなかなか元気が良いのー」と言われた。
  仕方なく私も、「もう知れたのか」と苦笑いすると、「地獄耳だから ねえ」と笑っていた。
  しかし何日たっても何の沙汰も無く過ぎてしまった。しかし黒崎君だ けが聯隊本部へ呼ばれ、長家甲副官に油を絞られた、と彼は後日私に語 った。
  それからの若林見習士官は、私を見ると「この作戦が終わったらまた 一杯やろうよ」といっていたのだが、彼はコヒマで戦死してしまった。
  ご冥福を祈る。
  色々あったが、本隊が到着後1ヶ月で思い出多いタダウの部落に別れ を告げ、最前線へ向かって出発した。

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