8.コヒマから撤退
弾を、弾を
撤退行 一時は完全制圧かと思われたコヒマの地に、無数の戦死した友を残し てこの地を去る無念さに胸がいたむ。しかし、無駄死にだけはさせては ならん、と撤退を決意した師団長の判断に、真っ黒く覆いかぶさってい た死への雲行きも幾分明るさを増してきた。 そんな複雑な気持ちを交錯させながら撤退して行く我々に、更に追い 打ちを掛る様に、アラカンの山々にはすでに雨季が待ち構えていた。 トヘマからの間道は、進攻時の整備されていた道も今は泥田と化して おり、道路脇のジャングルには多数の負傷者が収容されていた。 自力で歩ける患者は腕を釣ったり、杖を付いて集団で衛生兵に付き添 われて歩いている。重傷患者は、独立輜重隊による急造の竹ゾリを馬に 引かせて出発したはずなのに、ウクルルを過ぎる頃には其の姿は全然見 えなくなってしまった。そのことが不思議に思いて、いつまでも心の底 に重く残っていた。 −−戦後、当時の独立輜重隊にいたという人に逢って、其の後のい きさつを質したが、言葉を濁し確答を得られなかった?。−−
T、中隊のW軍曹 ウクルルを過ぎたすぐの道端に、T.中隊のW軍曹が腰を下ろしてい るのを見かけた。W軍曹は元私と同じ中隊に居たことがあり、顔見知り なので目礼して通り過ぎた。 数日後同じ部隊の兵隊に会ってW軍曹の事を話すと、彼は言いにくそ うに「W軍曹は可愛想なのさ」と語った。 彼は頭をやられ神経麻痺となり、言語、足腰が不自由で、ようやくこ こまで連れて来たものの、中隊でも負傷者が多く健兵も次々に斃れ、彼 を一緒に連れて退る事は不可能になった。 仕方なく、僅かな食料を預け「次の宿営地に着いたら必ず引き返し迎 えに来るから、それまで頑張って待っていてくれ」、となだめて出発し た。 しかし敵の追撃が激しく、遂に迎えに行く事が出来なくなってしまっ た、と彼は顔をゆがめて言った。
幼友達との別れ 進撃の時は険しいと言ってもまだ道は良かったが、既に雨季に入った アラカンの道は一歩一歩足元を確かめて行かねばならぬ。しかもジャン グルの夜道は真っ暗で道は殆ど見えない。 その時、私達は後退するのに前線へ向かって行く一人の兵隊と視線が 合った。 瞬間、「あっ松栄じゃないか」。 彼は故郷の隣の家の三男坊で、私より一つ年下の行田松栄だ。 真っ黒で、顔の上下が分からない程の髭を生やしていた。いくら偶然 だとしても、人の顔の見分けもつかない程の暗闇の中で、よくも彼を見 つけたものだ。 「どうした」、というと彼は、 マラリヤに患り「インパール作戦」に参加出来ず、今中隊復帰すると ころだとの事だった。 「一中隊は今撤退の後衛部隊で危ないから、途中から引き返した方が いいぞ」、とほんの何十秒間か話した。 彼は、「ああ」、と言ってまた前線へ向かって行った。 それが幼友達「行田松栄」との最後の別れとなった。 彼はその後中隊と行動を共にし、ビルマ領に入ってから又悪性のマラ リヤの再発でサガインの野戦病院で死亡した、と風の便りに聞いた。
アラカンの雨 アラカン山脈の雨は、世界最大の雨量を記録すると言われている。降 り始めると止めどなく、木の葉も破れんばかりに降り続く。 密林の中は敵機の心配もなく、昼間の行軍になった。 夕方になっても雨のやむ気配はなく、ジャングルの中で露営する事に なったが、飯盒炊さんするにも乾いた薪を集めるに苦労した。 天幕を張って回りに溝を掘り、木の枝葉を集めて滴を払い床に敷きつ めた。 連日の疲れもあってすぐ寝込んでしまった。夜中に背中が冷たくなっ て目が覚めた。 「ウワー、コリャーどうした事だ」天幕の回りに溝を掘ったはずなの に。洒落ではないが、私達3人は川の中に川の字に寝ていたのだった。
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