9.食糧がない

飛行場整備するな
  食料も大分底をついてきた。
  もう少し我慢をすれば「フミネ」に野戦倉庫があり、米は大量にある という。それまで何とか食べ延ばさなければならん。
  この密林の中には民家は無く、野生の動物すらあまり姿を見せない。
  たまに猿は見えるが、顔が人間に似ているので銃で撃つ気にもならな い。
  夜炊いた飯は三食分で、翌日のお昼の分まで有るのだから、朝は少し 加減しなければならないのだが、食べ始めるとお腹の方が言うことを聞 いてくれない。
  飯盒の片方が少し高いから平にして、と思って食べていると今度は反 対の方が高くなってしまう。それでもまだ未練が残って、浮いている一 粒一粒を竹箸で拾い上げていた。
  そこを古川義信君が覗き込んで、
  「関口いい加減で止めろよ」と言う。
  「あまりデコボコしているから飛行場の整備をしているんだ」、と笑 いながら答えた。
  すると古川も、
  「そうか、俺のも大分デコボコしているから整備をするか」
  「飛行機の発着に困るからなー」
  とまた食べ始めた。
  結局二人の飯は飯盒の底に僅かしか残らず、お昼は早々と食べ終わっ てまだ皆が食べているのが恨めしく、満足しないお腹をなだめながら飯 盒の中を眺めていた。
  いつの間にか其の事が相言葉となって、
  「おーい、あまり飛行場を整備するなよ」という言葉が私達の中に流 行した。
  山は下り坂になってきたが、雨は相変わらず降っている。
  さていよいよ「フミネ」も近付いてきた。


フミネの糧秣補給
  待望の「フミネ」の野戦倉庫へたどり着いたのが、昭和19年6月末 頃だった。
  なんとか食べ伸ばして来た背嚢の米も殆ど無くなっていた。兵站での 給与が楽しみだ。
  まだ密林からは抜け切らないが、この辺りからだんだん平坦地続きに なり、「チンドイン河」へも大分近付いて来て、ジャングルの向こうが 明るくなって来たような気がする。
  各班から出た糧秣受領の仕役兵が天幕を袋のようしてに担いで来た。
  「持ち切れなければ迎えに行ったのに」、と言うとこれで全部だとの 事。
  ”「なに、これだけを中隊全部で分けるのか」”
  結課的に、ここで受けた給与は、各人米一合、塩少々にタバコは1本 を3人で分ける事。
  但し米は1週間分だから、各人は其の様に節約せよとの通達だ。
  タバコ1本3人で分けるのは兎に角として、一合の米をどうして1週 間食べ伸ばしが出来るのか、と激しい怒りを感ずると同時に、さてこれ からどうしようか、との不安感が先に走った。
  だがその怒りの中に、もう一つ腹に据えかねた事が伝わって来た。
  コヒマで伊藤中隊長を失って以来後任に来たO中尉が、
  「わしはオカユは大嫌いじゃから、わしの米を沢山とっておけ」、
  「みんなの米の中から三本指で摘みだしても、わし一人位普通の飯は 食べられる」と申し付けた、と聞いた。


苦い飯粒
  フミネを出発したのが午後をかなり過ぎていた。
  次の設営地には明るいうちに着き、みんな手分けして食べられそうな 草を捜しに出た。
  内地にある「ミヨウガ」に似た赤い花が根本で咲いている、匂いも良 く結構食べられる。
花が食べられるなら葉も食べられるだろう、ときめ 込んで、フミネでもらった一合の米をいれて殆ど水のような七名分の雑 炊を作った。
  頃合いを見て味見をした古川君が、「オーイ苦いぞ」と言う。
  なるほど苦い、これではとても食べられた物ではない。勿論汁も苦い しつまみ上げた草に付いている飯粒もやはり苦い。
  仕方なく、「勿体無い、勿体無い」と言いながら捨ててしまった。
  その日の夕食はもう当らず、仕方なく水を飲んで寝ることにしたが、 隣の天幕の飯盒の音が耳障りでいつまでも寝つかれず、ようやくまどろ んだ明け方、甘い「ボタモチ」が沢山あるのに食べさせて貰えない夢を 見た。


お腹と背中
  次の日は2日間休養する事になった。
  この近く10キロ程のところに部落があるという。井上、村田、等と一 緒に中隊から10名程で物資の徴発に行くことになった。人が住んでいる ところには必ず何かあるはずだ、と勝手に決め込んで朝飯を食べずに出 発した。
  平坦地のうちはまだ良かったが、山道にかかると流石こたえた。
  部落につけば何とかなる、と頑張った。昨夜からなにも食べていない から、「お腹と背中がひっつく」と言う言葉があるが本当だなあーと、 つくづく感じた。
  部落は十数軒ばかりあった。みんな手分けして徹底的に捜したが食べ る物など何もない。
  「さあー困った事になったぞ」。
  本当に何もなかったらとうしよう、このまま何も食べずにどうして中 隊にたどり着く事が出来るだろうか、と悲愴な気持ちになった。
  「オーイいたぞー」「いたぞー」、と井上の声に駆けつけてみると、 大きな牛を追い回している。
  「逃がすな」。
  と怒鳴りながら、私も協力してようやくつかまえた。
  他中隊の兵隊が集まって来て、初めて見つけたのは俺達だ、と文句を つけて喧嘩となる。「見付けただけでは権利はない」、と突っぱねる。
  一時はどうなるものかと思っていたが、我々の強硬な姿勢に恐れをな してか渋々散っていった。
  日頃温和な井上源治君のどこにあの様に攻撃的な言葉が潜んでいるの か、と改めて彼を見直した。
  思わぬ収穫に心がわいて、それぞれで集めた三升程の米を全部炊いて 久し振りの牛汁、焼肉で大いに満腹感を味わった。
  残りの肉は、我々の収穫を首を長くして待っている者への土産として 持ち帰ることにした。


白骨街道
  雨は相変わらず降り続き、アラカンの山を下り終わる頃から暑さは増 してきて、平坦地に来ると更に蒸し暑さと泥と雨と脂汗が背筋を伝って 行く。
  その頃から疲労と病気で倒れる兵隊が続出した。
  道の両側にはどこの兵隊か分からないが、至るところに寝ている。い や、こんな泥道に寝ているのだから、おそらく死んでいるのであろう。
  中には死にかけている兵隊もいるであろう。しかし、もはや人間の死 と言うものに無神経になっているのかも知れない。またその兵隊の死を 確認したところでどうする事も出来ず、唯見過ごして来るだけとなって しまう。
  我が一小隊でも、神保義雄君が栄養失調で目が見えなくなり、小さな 川の辺で泥塗れになって死んでいるのが見つかった。
  彼は遅い招集兵で私より大分年上だったが、明るい性格で中々指先の 器用な兵隊だった。悪い事とは知りながら、我々も良く彼を利用したも のだ。−−悪い先輩だった事を謝し神保君の冥福を祈る−−
  フミネから、チンドイン河畔のシッタン部落までの死体は、無数とし か言いようがなく、誰言うともなくこの道を「白骨街道」と呼ぶ様にな った。


勝又清一等兵の死
  小休止の度に急いで薮にはいる兵隊がいる、見ると勝又君だ。
  「勝又どうした、背嚢を持ってやるから元気をだせ」、と私に声をか けられた途端その場に座り込んで動けなくなってしまった。
  「さあ困った」
  一人を担架で運んでいるし、最早どうする事もできない。仕方なく勝 又君には元気な兵隊を一人付けて残し、中隊が次の宿営地に着いてから 引き返し迎えにくる事にした。
  宿営地に着くなり休憩もせず、健兵4人で雨の降りしきる中を引き返 し迎えに行った。
  勝又君を乗せた担架の到着したのは既に夜の10時を過ぎていた。
  シッタンからさらに下流の、オークタンと言う部落に落ち着き次の命 令を待つ事になった。
  この部落は十数軒の小さな木造造りの家が多かった。しかしここは部 落の中心地らしく古いが立派なお寺があり、寺には木造の船が備え付け てあった。
  中隊は各班毎に設営する事になって、ようやく雨露だけはしのぐ事が 出来た。
  勝又君の容体は日増しに悪化して行くばかりで、飯を運んでやっても 食べる元気が無くなって来た。
  彼は赤痢患者なので、特に便所へ行くに便利な隣の部屋を選んだ。
  私は彼のそばを離れず、
  「勝又、元気を出せよ」
  「近いうちに、ラングーンから病院船が患者を迎えに来る事になった から、それまでの我慢だ、頑張れよ」
  「飯を食べないと元気が出ないから少しづつでも食べた方がいいぞ」
  と元気付けるが、彼は寝たまま天井の一点を見つめ、無表情に唯うな ずくばかりだった。
  医者さえおれば、薬さえあれば彼を助ける事が出来るのに、ただ手を こまねいて見ているのが残念でならない。
  彼は自分の死期が分かっているのだろうか、それとも淋しいからだろ うか、私が部屋を出るとすぐ呼び戻す。
  しかし既に運命は決まっていた。彼は其の日の午前中に息を引き取っ てしまった。彼の腕にかけてあった時計も止まっていた、彼と運命を共 にするが如く。
  遺体は一番目標になる大きな木の下に埋葬した。
  「勝又君、きっと迎えにくるから、と語りかけながら」。
  しかし、この戦況で果たして再びこの地を踏む事が出来るだろうか。
  俺たちもいつかは同じ運命をたどらなければならない宿命なのだ。
  −−  勝又君達の遺骨は昭和50年2月、秋山誠治さん達遺骨収集班 の手で無事日本へ帰り着くことが出来た。30年間、さぞ待ったであろ う。ご冥福を祈る  −−


烈師団長の解任
  戦況は非常事態を迎えていた。
  牟田口廉也軍司令官の命令に背き、我々をここまで退げてくれた佐藤 幸徳師団長がついに解任された。
  後任の師団長が着任するまでの間、宮崎少将が代行する事になった。
  解任された師団長は、離任に際して我々将兵に対し離任の辞という言 葉を残して去っていった。
  その言葉を聞いた我々は皆、師団長の兵隊を思う心の暖かさに手放し で泣いて離任を惜しんだ。
  師団長が交替すると事態は一変した。今まで軍司令部の命令に逆らっ て来た師団長というつっかい棒がなくなった今は、軍の命令をまともに 受けなくてはならなくなって来た。
  福永聨隊長は「何兵たりともチンドイン河を渡る事は相ならん」、と 命令を出した。
  仕方なくチンドイン河を目の前にして暫くここに留まる事になった。


糧秣輸送船来る
  師団長が解任されてから暫くすると、ラングーンから糧秣を満載した 舟が遡航して来た。
  各中隊から運搬仕役兵を出す事になり、皆で作戦を練った。仕役兵の 他に横取班を編成して、降りやまぬ暗闇の雨の中へ出ていった。
  糧秣は一旦聯隊本部の給与係へ運ぶのだが、途中薮の中に待機してい る横取班に渡し、仕役兵は何食わぬ顔で又船に戻る。其の作戦が成功し て数百キロの米が手に入った。
  正規の分配米と合わせて当分米の心配は無くなった。

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