10.マラリヤとの戦い

患者に渡河命令
  どうも体調が変だ、寒気がする、またマラリヤの再発らしい。
  部落では爆撃の目標になるので、少し離れた竹薮へ退避するのが日課 となった。完全にマラリヤになり熱は40度を越えていて、この僅かな 道のりを行くのに何十キロも歩く様な気がして、爆撃されてもよい寝て いた方が楽だ、と思った。
  数日後、「負傷者と疾病者は直ちに渡河し、病院で適切な治療を受け る事」、と師団命令が出た。
  小隊長代理の上村久治軍曹は、私にも退がる様勧めたが、私は、マラ リヤだから2、3日すれば治るので部隊と一緒に行動させてくれ、と何 度も頼んだが上村軍曹は、遅かれ早かれ全員渡河せねばならないのだか ら、此処はなるべく少数の方が良いので是非退がれ、と言われ仕方なく 中隊を離れる事にした。
  渡河点は此処より少し上流のクンタンと言う所だった。
  暗闇の渡河点には傷病者で黒山だ。軍医が一人いて患者の診察をする のだが、診察と言っても患者が軍医の前を通りながら、腕です、足です、 マラリヤです、と言えば軍医は唯うなずくばかりで兵隊を後方へ退げる 手段に過ぎなかった。
  真っ暗な濁流渦巻くチンドイン河を民舟で渡り、対岸に取り付いた。
  足元が滑るので柳の木につかまり、網の目のような泥だらけの枝の下 をくぐりながらようやく河岸を這い上がった時は、「ああ又命を一つ拾 った」、と思った。
  上陸した患者は誰が引率するでも無く、三三五五、暗闇の中へ逃げる 様に消えていった。


高熱の急降下
  私達は中隊毎に一緒に行動する事になった。
  進攻の時に通った道を戻るので、夜でも道を間違えることはない。
  カウンカシも過ぎ、ジビュー山系に入ってからは敵機の心配もなく昼 間の行軍に戻った。
  ワヨンゴンを過ぎる頃は一時晴れ間も見える様になって来たが、ピン レブに近付くにしたがってまた毎日の篠つく雨は、防雨外套を通して肌 まで濡れる様になって来た。
  その頃から、一時治まっていたマラリヤが又再発した。いつもの様に 悪寒から始まり、40度近い発熱で歩行困難となり、仕方なく山の中の 一軒屋で休む事にした。
  同じ小隊の宮下金作一等兵は私の為に他の兵隊と別れ、飯の支度や頭 を冷やすなど面倒を見てくれた。
  高熱にうなされて寝ていたが、急に便意を催し、肌着一枚で霧雨の降 る中で用をたした。
  すると、不思議な事に急に高熱がなくなり、一変に元の元気が出てマ ラリヤが治ってしまった。
  便の出たのが良かったのかも知れない、この分では明日は元気にここ を出発する事が出来る、と喜んだ。
  しかし喜んだのも束の間で、5分もたたない内に今までに増して高熱 となり、その晩は一睡もせず夜を明かしてしまった。
  宮下君には申し訳ないのでその朝お礼を言って先行してもらった。
  2日ほど寝ていると、ふらつきながらも歩ける様になり、一日歩いて 漸くピンレブの町に到着した。
  ここの町には兵站部隊の糧秣補給所があり、甘味品や色々と補給する 事が出来た。
  そこで意外な事を知らされた。二日程前まで私の面倒を見てくれた宮 下一等兵が病死したとの事。私の世話をしてくれた時から具合が悪かっ たのではないか、と思うと申し訳ないやら可愛想でならなかった。
  ご冥福を祈る。


象の木出し
  ピンレブの町を過ぎると一面チーク林になって来て、今盛んに伐採が 行われていた。切り出されたチーク材は直径1メートルもある大木で、 運搬は専ら象に頼っている。
  長さ10メートルもある大木に鎖を付けて引き出すのだが、人間の腕ほ どある木を根こそぎ倒し引き出す象の怪力に、さすがに驚いた。
  山奥のこの地方には陸上の交通機関はなく、雨季の増水を利用して川 に流して運ぶのが唯一の運搬機関というものらしい。
  川沿いの道を暫く行くと、途中の河原に流れ着いたあの巨大なチーク の原木を、象の鼻で流れの方へ押しやっている。しかも河原の砂の上を 一回転ずつ転がして行く鼻の力に、唯々あきれて暫く見ていた。


屋根の寝台車
  ピンレブの町を出てから何日たったであろうか。漸く「ウントウ」の 町に着いた。
  この町には鉄道の駅があり、サガインを経てラングーン方面まで通じ ている。
  駅の周辺には、チンドイン河を渡って撤退して来た患者の集団が、溢 れんばかりに汽車待ちをしていた。
  汽車が到着すると集団は怒涛の如く押し寄せ、汽車はまるで蟻に巻か れたミミズの様になって発車した。
  それでも半分ほど取り残されてしまった。今着いたばかりの私達は勿 論乗る事は出来なかった。
  汽車と言っても軍事物資輸送の専用車で、前線からの撤退兵など運ぶ 汽車ではない。
  次の列車には必死で乗ることは出来たものの、既に余裕などあるはず がない。どんなところでも乗りさえすれば何とかなる、と有蓋車の屋根 の上にしがみついた。
  ビルマは平坦地でトンネルが無いから頭を打つ心配はないが、列車の 振動が激しい。それでも疲れているので何時の間にか眠ってしまった。
  ハッと目を覚ますと、屋根の半分ほどずり下がっていた。「危ない」 と掴む処をさがすが何もない。手の平をすり付けながら揺れる列車の屋 根をなんとか這上がる事が出来た。
  次の停車駅で今度は、前線から撤去して来たレールを満載した無蓋車 に乗り替える事にした。
  それでも歩くよりは早くて楽だ。昼は汽車から離れ退避し、夜になる と何処からともなく集まってくる。
  そんな事を繰り返しながら、イラワジ河畔のサガインの町に着いた。


生き地獄のサガイン
  サガインは、進攻時にも通過した所だが、今は其の当時とは様相が一変 していた。
  前にも書いたように、ここはラングーンから船で遡航する物資の直送 地であって、鉄道の分岐点でもあり、また古都マンダレーがイラワジ河 の向こうに広がって見える風光名媚な所であった。
  イラワジ河に架かるアバの鉄橋は敵の撤退時に破壊され、結局ここが 部隊や患者の中継点になっている。
  私もマラリヤは既に治っているのだが、一応患者という事で入院する 事にした。もし居心地がよければ休養を取り、体力をつけて中隊復帰し たいと思って入院の手続きを取った。
  病室の中へ入ってみると、土間の両側の一段高い床には患者で一杯、 床に上がる元気の無い患者は土間に寝ている。病室に見切りを付けた兵 隊は外の木の下で寝ているのが随分いた。
  私は、割合元気そうな兵隊に病院の様子をきいて見た。彼の話では、
  「身体に自由のきく兵隊はこんな所にいるもんじゃない、」
  「俺達も明日出発するんだが、毎日30人位の死亡者が出て、元気な 兵隊は其の死体の始末に使われるぞ」と云っていた。
  毎朝大型のトラックで、イラワジ河上流地点の凹地に捨てるとの事。
  これは大変な処へ来てしまった、しかし今晩の飯を貰うためには逃げ 出す訳には行かず、明日は早々に出発する事にしてここで世話になる事 にした。
  夜になると患者のわめき声が一段と騒がしくなって来た、この病舎は マラリヤの患者だけが集まっているらしく、外傷患者はほとんど見当ら ない。
  私の横にいた患者がいきなり飛び起き、「お母さん、お母さん」、と 大声を出して呼んでいる。向かい側では「佐渡おけさ」を唄う声も聞こ えてくる。彼等はなにを考えているのか、唯内地の事、家族のこと、今 自分が何をしているかは分からないのであろう。
  自分の奥さんの名前か、それとも子供か、同じ名前を一晩中呼び続け ていた兵隊も翌朝には死んでいた。
  衛生兵が見迴りに来た。
  「皆よく聞け」、
  「今度内地へ手紙を出せる様になった」
  「今から紙を渡すから家族のところへ手紙を書く様に」、と紙を配り 始めた。
  変だな、こんな戦況の悪いさなかに内地へ手紙など、と不審に思って いると私達の方には回ってこない。
  そうか、この病室には今日の命しか持たない兵隊がたくさんいる。そ の人達に遺言状を書かせようという、衛生兵の暖かい思いやりだったの だ。
  いつの間にか静かになったので少し眠った様だ、回りのざわめきに目 が覚めた。
  衛生兵が朝の点呼に来て、次々名前を呼ぶのだが、返事のない兵隊は 皆死んでいた。
  外の木の下で寝ていた兵隊も、昨夜のまま寝ているから殆ど死んでい るのであろう。
  昨夜の光景が頭に残り、生き地獄というか、地獄絵図と言うか、情景 がはっきりと分かりながら、それを表現する事の出来ないもどかしさだ けが心に残る。
  いつまでもこんな所にいると自分も本物の病気になりそうで、朝飯を 食べ早々にアバの鉄橋を歩いて渡り、マンダレーの町へ向かった。

  注……  戦後遺骨収集班の資料によれば、サガインの病院での戦病死 者は1,600名を越えた、と書いてあった。……

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