11.部隊へ復帰

ラングーン到着
  コヒマを撤退しラングーン到着まで、何百人、いや何千人の患者は途 中で振り落とされ、ラングーンまで到着出来た兵隊はよほど運の強い兵 隊か、身体の丈夫な兵隊で、それ以外の兵隊は殆ど死んでしまった。
  ラングーンの陸軍病院は回りが緑の樹木に囲まれた静かな場所で、ラ ングーン大学の校舎がそれである。


シラミの運動会
  病院では毛布を一枚貰って病室に案内された。誰が着たのか分からな い毛布を屋上で陽に当てようと広げてみると、「ウワー」出てきたわ、 何十匹ものシラミが一斉に動き出し、シラミの運動会が始まった。自分 の身体にも中支以来のシラミもいるのだが、この毛布だけは気持ちが悪 くなりそのまま返納した。


体重32キロ
  汽車の到着する毎に全員が病院に殺到する。皆自分の部隊を離れ、イ ラワジ河を渡った患者だから一応ここの終点まで来る事になるのだが、 とても病院側ではさばき切れるものでは無い。
  私は40度の高熱の身を2日間収容され、トコロテン式に病院を追い 出されてよろめきながら練成隊という所へたどり着いた。
  練成隊はラングーン郊外の「シュイダゴン、パゴダ」(金色パゴダ) のある近くで、人造湖で有名なビクトリヤ湖の付近にある。
  練成隊の本来の使命は、退院した兵隊に体力を付けて再び前線へ送り 出す訓練所なのだが、今は既に患者の収容所と化しているが、練成隊の 名前の通り身体の鍛練をしなければならない。
  食事の当番が廻ってきた。10キロ程の飯を二人で担ぐのだが腰が抜け て歩く事ができない。
  翌日医務室で体重測定をすると、なんと32キロしか無く、徴兵検 査の時は68キロあったのだから36キロも減っている。骨に皮が 巻き付いている様な哀れな姿になっていて、自分の体重を支えるのに精 一杯いだ。


餡ころ餅
  練成隊には15日ほどおり、いよいよ中隊復帰する事になってラング ーンを出発した。汽車は10トンの有蓋貨物車で15人乗りだが、横にな れるだけ有難かった。
  ラングーンを出発した翌日あたりから腹の具合が悪くなってきた。便 が緩くその回数も次第に多くなって来た。途中の駅の停車時間は短く、 止まる寸前に飛び降りて用を達し、軍袴を上げないうちに発車する。
  悪戦苦闘の末ようやく退避駅に到着した。
  腹の具合が悪いので、出来るだけ物は食べないように我慢したが、今 日はおそらく40回以上用達しに行っているだろう。何も食べないから 出る物は何もない、最後には片栗のような物しか出ない。
  何も悪いものは食べた事も無いのに、と便を見ると血便が出ている。
  〃「しまった」〃
  〃「とうとう赤痢になってしまった」〃
  途端にオークタンでの勝又一等兵の事が頭に浮かんだ。
  「さあ弱った事になってしまった」。
  とにかく下痢をしているのだから、それを止るのが先決だ、と焚火の 消し炭をかじった。
  だが赤痢とわかれば先は見えている、「どうせ俺も勝又君の様に血便 で身体中餡ころ餅の様になって死んで行くんだ」、もはや未練を残すこ とはない。思いきり食べたい物を腹一杯食べろ、と覚悟を決めた。
  財布を空にして、バナナ、パパイヤ、モー、(ビルマのお菓子)、ウ ドン、何でも手当たり次第に腹に詰め込んで、後はどうなろうと運を天 にまかせる事にして早々と寝た。「不思議だ」
  その夜は1回も便所へ行かず、朝になっても便意がない。
  出るものが全部でてしまったからか、それとも空腹にいきなりなんで も詰め込んだからか、体力が付いたのも一つの原因かもしれない。
  それっきり発病せず完治してしまった。
  逆療法が効果的だったのかも知れない。


体力の回復
  カンバルにいる部隊に追及出来たのが19年11月頃だった。
  敵も戦線の整備をするためか、1ヶ月ほど攻撃に出なかった。その間 毎日3食ともオジヤに胡麻油を入れて食べた。それ以外普通の飯はどう しても身体が受け付けなかった。自分ながらよくも1ヶ月も続けたもの と思った。
  そうする内に徐々に普通の飯が食べられる様になって来ると体力が付 いて来た。

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