13.生死をかけた行軍

傷と発熱と太陽と
  両腿の傷が触れると痛い、足をガニマタにして皆に後れないように必 死に歩き続ける。
  熱が出て身体中が熱い、鉄帽の覆をとって背中に付けると「ヒヤリ」 として気持ちがいい。だがそれも長続きはしなかった。
  喉が渇いて舌が上下にひっついてしゃべる事が出来ない、唯黙々と歩 き続ける。
  陽は昇り始めたが目指す部落は見つからない。
  これ以上日中の行軍は敵に見つかる恐れがあるから出来ない。そこで 小銃隊より3人の斥候兵を出して部落を捜す事になり、皆はボサの中に 身を隠し斥候の帰るのを待った。
  乾季の平原地は草も木の葉も枯れ果てて砂漠地帯のようだ。所々に人 の背丈の何倍もあるサボテンの木が群れをなし、その下に、小さな刺だ らけの頭にピンクの花を付けたサボテンが、転がる様に生えている。
  私は、ようやく身を隠すだけの茂みを見つけ横になった。
  南方特有の強烈な太陽が、弱り切っている私の身体を照り付ける。喉 はカラカラだが水筒の水は1滴もない、高熱が続き頭は「ガンガン」殴 られる様に痛み、目の前が真っ暗になって来る。
  灼熱の太陽は私の身体から容赦なく油汗を絞り出す。「死んでたまる か」「死んでたまるか」と、気持ちだけの抵抗では無駄のようだ。
  「何もいらない、狭くてもいい、父母の待っている平和な我が家でゆ っくり休みたい」、と思っているうちに気が遠くなって行くのをどうす る事も出来なかった。


斥候兵帰る
  先に偵察に出た斥候兵が帰ってきた。この先の部落には敵の姿は見え ない、直ちに出発する事になった。
  やっと体を起こし、夢遊病者の様に「よろよろ」とようやく部落へた どり着く事ができた。
  佐藤康二、井上源治、二人の世話になり、米の飯に有りついた。
  水も飲むことができた。しかし負傷している私には腹一杯の水は飲ま せて貰えなかった。
  「関口、あまり水は飲むなよ」
  「分かっている、口をゆすぐだけだ」と言っているが、我慢出来るも のではない。


コレラ発生
  小銃隊からコレラが発生した。初めは下痢と嘔吐、それが段々激しく なって発病後8時間ほどで死んでしまった。
  私は見られなかったが、井上君達の話しでは身体中の水分がなくなり 肉の形すら無くなっていた、と言っていた。
  しかしコレラなど経験のない者ばかりで、何の病気か分からないので とにかく下痢をしているのだから水は飲むな、と殆ど与えられなかった らしい。


第二夜の行動
  しばらく安静にしていたせいか多少元気が出てきた。第二夜の行動が 始まり、佐藤と井上が前後について私を護ってくれた。
  背嚢や装具は全部捨てて来たので身軽なはずなのに、歩き出して見る と、気持ちだけは落ち着いているのだが足がいうことを聞かない。
  イラワジ河畔を撤退する時部隊長の訓示に、途中で部隊から離れた時 は東南の方向に進めば必ず部隊に追及出来るとの訓示があった。しかし こんな事態になるとは予測もしなかった。
  ビルマの乾季の夜空は星で眩しいほどだ。南十字星、北極星、オリオ ン座など手が届きそうだ。
  夜間方向を知るには北極星を見つけ、両手を横に上げ顔を北極星に向 けると東西南北がすぐ分かる。右手が東、左手が西、後ろが南というこ とになる。またオリオン座の回転によって時間を知ることも出来る。
  こんなに星の有難さを知ったのは生まれて初めてだ。
  皆もくもくと歩いている。話しをするにも声を秘そめなければならな い。
  私は痛い足を引きずりながら、皆に遅れない様に必死で歩く。井上と 佐藤は私を看護してくれるように時々元気を付けてくれた。
  早く友軍にたどり着きたい気持ちから、自然と行軍の速度が早まるの は仕方ないのだが、私にとってはとても苦しい行軍である。
  もはや私の体力にも限界がきたようだ。このままでは皆に迷惑が掛か るから私一人で行くことを考えた。
  「源ちゃん、俺は皆と一緒に歩けないから先に行ってくれ」
  「俺は後から一人で行くから」と言って腰を降ろした。
  「バカ、何を言うか」
  「貴様俺達を先にやって後で死ぬつもりだろう」と、ひどく叱り付け た。
  私としては一人で行ける所までは行くつもりだが、いよいよ最後にな れば自分の身のふり方は覚悟をしていた。
  私がどんなに言い訳をしても駄目だった。
  「俺達はどんな事があってもお前を連れて行く」と言って聞かない。
  「それじゃあ牛車を見つけてくれ、俺の最後の願いだ」と頼んだ。
  小部隊は休憩をとり、私のために暗闇の中を民家を捜し牛車を一台見 つけてくれた。
  皆の好意に心から感謝して牛車を走らせた。


コレラの恐怖
  暫く行くと小銃隊の一人が叉腹痛を訴えて、私の牛車に乗る事になっ た。
  やはり前の患者同様に水を欲しがった。あまり可愛想なので自分の水 筒の水を飲ませてやった。
  その後行軍は順調に進み、夜明け前に「キャウセ」の本隊にたどり着 く事が出来た。
  そこで腹痛の患者は軍医の診断ではコレラだと聞かされた。牛車の上 では自分の水筒の水を飲ませ、自分でもその水を飲んでいるのだ。
  コレラの潜伏期間は1週間だと聞き、その1週間はまた生きた心地が しなかった。
  私は第31野戦病院に収容される事になって、本当にお世話になっ た井上、佐藤達にお礼を言って、ジャングルの中の病院に向かった。


新しい出血
  野戦病院に収容されたのが3月18日昼前頃だった。
  野戦病院と云うので気持ちを落ち付かせてゆっくり治療出来ると思っ て来てみると、病院とは名ばかりで、100名近い患者に軍医3名、衛生兵 10数名の集団だった。
  元気な患者はお昼の支度で忙しそうに動いていた。
  私は背嚢も米も戦車に追われた時全部捨てて来てしまった。さてどう したものか、と考えていると、
  「及川助七」と、入院者を呼ぶ衛生兵の声に振り向くと、「あ」、 私が前に所属していた通信隊の軍曹ではないか。
  思わず、「及川軍曹」、と呼ぶと、
  「なんだ関口じゃないか」
  「何処をやられた」と言いながら軍医の方へ歩いていった。
  私も呼ばれ軍医の前に行く。軍医は無表情に、「何処だ」、と云って 包帯を取らせた。
  ズボンと一緒に縛り付けた包帯は、傷口に張りついてなかなか取れな い。
  黙って見ていた軍医は、「イライラ」しながら衛生兵に早く取ってや れ、と言った。
  衛生兵は無言で、いきなり傷口に張りついた包帯を剥ぎ取った。
  「うううー」私は悲鳴にもならないうめき声を上げてしまった。
  傷口からは又新しい血が流れ出した。
  それでも軍医に見てもらったと言う安心感が、今まで張り詰めていた 気持ちを和らげてくれた。


病院の移動
  及川軍曹には刈羽郡出身の尾見一等兵が伝令として付いて来ていた。
  私は彼に世話になり、お昼と夕食も食べさせて貰った。
  今夜はゆっくり眠れると思っている耳に、遠くで又敵の機関銃の音が 聞こえて来る。
  「もう敵が追って来ているのか」、と思っていると衛生兵が、「野戦 病院は直ちに後方へ向かって出発する」
  「皆その様に準備しておけ」
  「もし歩けない患者がいる時は担送するから申し出ること」との事だ った。
  私は両足の負傷だから、出来る事なら担送にしてもらいたい、と思っ た。
  更に衛生兵は「もし担送患者の多いときは2回に運ぶ事になるからそ のつもりで」、との事だった。
  さあ、これは大変なことになったぞ。
  以前「コヒマ」撤退のときに同じ事があったのだ。敵の追撃が早く、 迎えに行く事ができず敵中置き去りにされた兵隊もいたのだ。
  「ようーし歩くことにしよう」と決心した。
  及川軍曹が、「関口どうする」と云うので。
  「歩いて行きますから一緒にお願いします」と頼んだ。
  「それじゃあ関口は足をやられているから、それに合わせて歩く事に しよう」と、私を中心にして行軍をはじめた。

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