14.負傷兵の苦難

シャン高原の山登り
  平原地のメークテーラの町は既に敵に退路を遮断され、仕方なく各隊 ともシャン高原ヘ退路を求めて行った。
  私達は数名ずつの集団となって山登りを開始した。
  最初の1日は私本位に歩調を合わせてくれるのだったが、杖にすがっ て「ピョコン、ピョコン」と歩く私に、元気な者はどうして付き合うこ とが出来よう。
  次の日は一緒に出発したものの、何時の間にか別れ別れになり皆それ ぞれ自分のペースで行軍する様になった。
  2日間の山登りでようやくシャン高原へ上り詰めると、頂上には軍用 トラックが待っていて患者を乗せてカローへ向かって後送してくれた。
  途中トラックの都合で3日程歩く事になり、その時には既に足の悪い もの同志の集団になっていた。
  シャン高原は高冷地で、昼夜の温度差が激しく、空気が澄んでおり、 気ままな夜行軍の旅は気分も爽快で、しばし足の痛さを吹き飛ばすかの ように、当時流行の「シャン高原ブルース」という歌を

      野行き山行き南の果てに
                来たぞ高原シャンの町
      お花畑に松風聞けば
                遠い故郷がしのばるる

  と、瞬時敵に追われている身を忘れて大声で唄いながら歩いた。


カローの町
  高原を登り始めてから何日くらいたったであろうか、ようやく「カロ ー」の町についた。
  この町は戦前ビルマ在住の外国人の別荘や、英国軍高官などの避暑地 でもあった。
  小ぢんまりした盆地の町には、トンガリ屋根のしゃれた建物がたくさ んあり、庭には「ケイトウ」や「コスモス」の花も咲き乱れ、赤土の丘 の上からは赤松の香りが漂い真緑が目に飛び込んで来て、さながら内地 へ帰った錯覚をおこす。


脚の蛆
  カローの病院は飯を食べさせてくれるので有難い。
  病院も爆撃を避けるためジャングルへ退避していた。到着したばかり で治療所を見付けることが出来ず、付近の大木の下で夜になるのを待つ ことにした。
  昨日あたりから、傷口が痛い中にも「チクリ、チクリ」と針で突かれ るような痛さを感じた。
  何日ぶりかに包帯をとって見ると傷口の回りに蛆が這っている。
  死体にたかる蛆は何処でもみられる光景だが、生身の身体にたかるな ど思っても見なかった。
  仕方なく竹のピンセットで肉の中に食い込んだ蛆を1つ1つ取り除い た。


カローの宿舎
  夕方になり病院の宿舎へ帰って見ると建物は爆撃で跡形もなかった。
  朝ジャングルへ退避のとき、装具の一部を残して行こうかと思ったの だが、万一のことを考えて持って行って助かった。
  両腿が痛く、立ったり腰を降ろすのが辛く、腰を降ろす時は前方に位 置を決め、直立のままパッタリ倒れ、両腕で支えてから尻をつく、なん とも奇妙な格好をしなければならない。
  大便をするのに一番困った。膝を曲げられないから、ほとんど立った たままするのだから、なかなか技術が必要だ。


乞食の悲哀
  食事は病院から貰えるから困らないが、飯盒も背嚢も捨てて来てしま ったから何処かで見付けなければならない。おぼつかない足取りで空き 家を捜し歩いた。
  衛生兵宿舎の倉庫の前に白砂糖がこぼれている。もう何ヶ月も甘い物 など有り付いた事がない、拾ってこようかと思っていると衛生兵が兵舎 から出てきた。
  「そこにこぼれている砂糖を少し下さい」と言うと、衛生兵は私の顔 をチラリと見て、「あ、またやられた」と言ってこぼれた砂糖を靴でけ ちらかして兵舎へ飛び込んで行った。
  「あヽ勿体無い」
  敵弾でボロボロになった軍袴に、汗と垢で黒光する軍衣を着て、杖を つきながら人に物乞いする自分の姿が哀れでならなかった。
  近くに空き家を見つけた。色々な物が散乱している。
  鉛筆や通信紙も拾い、飯盒の代用品もあって、何とか間に合わせる事 が出来た。


シャン高原の首都へ
  兵站病院の移動に先立ち、患者もカローを出発する事になり、日没後 患者を病棟前に全員整列させ、引率隊長の訓示があった。
  シャン州の首都タウンジまで約30キロの道程がある、只今から出発 するが身体に自信のない兵隊は申し出ること。「その者は後で自動車で 輸送される事になる」といった。
  私は健脚者と一緒の行軍はとても無理だ、と思って残留を申し出た。
  中には自動車輸送という事で、ずるい気持ちで残った患者もいて衛生 兵に徹底的にビンタを取られた。
  色々あったがその夜のうちにトラックで「タウンジ」まで輸送して貰 った。
  シャン高原最大の都市も敵の爆撃で廃墟と化していて、三角山の麓の 英国軍の兵舎に落ち着いた。
  しかし敵に制空権を握られている間は、何処へ行っても安住の地はな い。この宿舎も假のねぐらで、朝になれば退避せねばならない。
  この辺は水田もあり、畑にはキャベツ、ニンニク、トマトなども植え てあり、殆どの兵隊がニンニクを食べるのには閉口して、仕方なく自分 も食べて同等になる事にした。
  「タウンジ」にしばらく居る間に、3月16日負傷以来丁度1ヶ月ぶ りの4月16日には傷口が完全に塞がった。


インレー湖
  タウンジを出発し、高原を少し下がった処に「インレー湖」という湖 水があった。向こう岸がかすんで見える程大きな淡水湖で、付近から流 れ込んでいる水は淀んで水郷のようになっている。
  湖と言っても岸辺の水は川のように流れ、底には緑の昆布のような水 藻が流れの方になびいて不気味な感じがする。
  岸辺の近くには湖の上に家を建て、湖の魚を取って生計を建てている 水上生活者もいた。
  私達の宿にしたお寺の前には大きな「マンゴー」の木が数本あり、ま だ青梅のような実を沢山つけていた。


蟹との戦い
  日中は少し離れた民家に退避し、夕方にはお寺に帰る日が続いた。
  その行き帰りの道筋に、内地の沢蟹に似た小さな蟹が遊んでいるのを 見つける、捕まえ様と手を出すと素早く穴に逃げ込んでしまう。其の逃 げ足の早いこと、何度挑戦しても其の都度失敗に終わる。色々考えたあ げく、蟹の逃げ込む前に帯剣を穴の途中に差し込むことで成功し、半日 で飯盒に半分程の成果を上げ、一日の蛋白源として意気揚々と引き上げ た。
  この付近の農家は砂糖黍の栽培が多く、今取り入れの真っ最中で牛の 動力で大きな車を回転させて水を絞り取っている。
  お寺の宿も4、5日で今度は民舟で舟下りをする事になってお寺を出 た。


首長族の町
  移動した宿舎はかなり賑やかな町で、市場には付近の部落からの買い 出しで活気を呈していた。
  ここにはビルマの平地民族、カチン族、シャン族、と人種は色々様々 で其の中に一際目立つ若い女がいた。首に真鋳の環を何本もはめてその 上に首がニョキンと乗っている何とも奇妙な格好をしている。首長族の お金持ちの貴婦人とのことだった。


丸木舟の川下り
  このインレー湖は「ナムビル河」の源流で、あの大きな「サルウイン 河」に注いでいる。
  もはやビルマの空は雨季に入り始めていた。
  丸木舟には船頭を入れて15人が乗り組み、身動きも出来ない状態で 暗夜を利用して丸木舟は出発した。
  この地方の船頭は独特な櫓の使い方をする、舟縁に片足で立ち、もう 片方の足で櫓を漕ぐのだが、さながら一本足のカカシみたいだ。
  舟が出発してすぐ雷雨に見舞われ湖上の家に雨宿りをした。暗闇で何 も見えなかったが出発の際「カボチャ」を1つ失敬してきた。


螢の交響楽団
  舟が湖上の中程に来た頃、対岸の螢が先ほどの雨に鮮やかに光ってい る。その数は数千匹、いや数万匹位もいるか、しかも真中から二つに分 かれ、あたかも指揮者でもいるかのように左右交互に点滅して誠に見事 だ。こんな事って本当にあるものだろうか、まさか夢ではなかろうかと 目をこすって見たが夢ではないまさしく螢である。
  こんな光景は二度と見る事が出来ないであろう、もし生きて内地へ帰 る事が出来たなら貴重な土産話になるが、果たして皆がこの話を信用す るだろうか、と考えながら何時までも見とれていると、湖は何時の間に か川になっていた。


川舟の敵中突破
  今日は第3日目の川下りの夜である。月は10日位だろうか、風もなく 静かな夜である。川の魚も浮かれているのか時々舟の中に飛び込んでく る。川の両側には大きな水車が水を汲み上げて農地を潤している。
  なかなか考えた生活の知恵である。こんな風景は処所に見られた。
  第4日目いよいよ難関の日がきた。
  我々の前日川を下っていった、第124兵站病院の本田見習士官の 指揮する川舟が、川の両側に陣地を敷いて待機しているチン族の部隊に 襲撃され、多くの犠牲者を出した難所を通過せねばならない。
  陸地なら迂回する事も出来るが川下りとなると、どうしても同じ場所 を通過せねばならない。
  船頭もその事を承知しているので夢中で舟を漕ぐ、暫く行くと右手の 林の中からいきなり「カランカラン」と木鈴が鳴り出した。みんな一斉 に舟底に身を伏せた。たとえ撃たれても絶対に川に飛び込んではならな い、という輸送隊長の言葉が頭をかすめる。
  その間数分であったが逃げ場のない舟の中の心細さが身にしみた。
  昨日の戦闘のあとの気の緩みか、敵の隙を突いた形になり無事通過す る事ができた。
  インレイ湖を出発以来1週間で目的地「ロイコー」の町へ到着する事 が出来た。
  「ロイコー」には兵站部隊がおり、糧秣1ヶ月分の支給を受け58 聯隊の消息を尋ねると、すでに2、3日前にここを通過して「サルウイ ン河」下流に沿ってモチ鉱山の方に向かって行った事を知らされた。
  何の事はない、我々患者部隊より本隊の方の逃げ足の早いのには驚い た。
  一日も早く中隊へ帰り、元気な姿で皆と行動を共にしたいと思って今 日まで頑張ってきたのだが、これで本当に中隊復帰の望みは完全に断た れ、戦友とも別れ別れになってしまって何とも淋しい気持がこみあげて くる。
  仕方なく他の患者と同道して「サルウイン河」を渡り「タイ国」へ行 く事に心を決めた。


渡船場
  翌朝渡船場へ行って見ると既に黒山の兵隊が乗船を待っている。
  対岸から舟が到着すると、我先に乗り込もうと押し寄せる患者の整理 に当る船舶工兵隊の苦労は並大抵ではない。
  それはもう兵隊と名の付けられる人間は一人もいない。敵に追い詰め られて浮き足立った患者の群れと言った方が適切かもしれない。
  誰が引率するでもなく、その時その時気の合った者同志が集まって歩 いて来たというだけの事で、軍隊の統率など何処にも見られない。
  それでもここまでたどり着かれた患者はまだ良いほうだ。部隊として の機能がないから、途中で倒れても誰も面倒を見てくれる者はいない。
  自分自身は自らが護らなければならない。

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