15.再びタイへ

タイ緬国境へ敗走
  サルウイン河を渡った所にも兵站部隊があり、糧秣と兵器を渡していた。
  私は割合元気だったので、これから向かう国境の山越えに備えて糧秣と手榴弾数発をもらった。
  小銃も持って行くように勧められたが、タイへ行けば敵はいないからと断った。
  始めの2、3日は平坦な道が続いたが、いよいよ道も険しくなって来て、タイ緬国境のある「ドーナー山脈」は霧のため山頂をすっぽり被って我々を遮るようにそびえ立っている。
  私はいつの間にか長岡出身の金子五郎さんと直江津女学校の先生をしていたと言う軍曹等と行動を共にする様になった。
  雨季特有の雨はシトシトと降り続く、何処かで拾った防雨外套は雨を通して肌まで濡れてきた。背中に悪寒がはしる、またマラリヤがでたようだ。高熱のため足が「フラフラ」と夢遊病者の様に歩き続ける。
  暫く行くと小さな川に土橋がかかっていた。まだ時間は早いがこの橋の下で休む事にした。金子五郎さん達には先に行ってもらい私一人でこの橋の下で一晩過ごす事にした。
  橋の下とは良く言ったもので、雨が当らないから大助かりだ。
  飯はあるのだが高熱のため食欲が全然ない。
  ほとんど眠れないまま夜を明かしたが頭痛は止まらない。体を起こして見ると目先の目標が定まらない。しかしこんな橋の下に何時までもいる訳には行かず、心に鞭打って橋の下を出発した。
  幸い雨もやんで熱も少し下がったようだ。しかしもとの元気も何処へやら何も考える気力もない、唯々足を前に出すだけ倒れない様にふんばるのが精一杯だ。
  前線から遠のき、敵に追われる心配はないので幾分気持ちだけは明かるかった。


小便の流れ
  暫く行くと、いよいよ急坂になって来た。
  雨はやんだが山は霧で頂上は見えない。這うように露草を掴みながら登って行くと、ようやく頂上が見えて来た。登りきって喜んであたりを見回すと、目の前に今登ってきたのと同じ様な山が待っていた。
  「なーんだ、頂上じゃなかったのか」、と思った途端全身の力が抜け露草の上に崩れる様に腰を降ろした。
  頂上までの途中に死んでいる兵隊もおり、休んでいる兵隊も大分いたが果たして何人登ってこられるだろうか。
  その頂上にはまだ第2第3の頂上があり、登り詰めたところはタイとビルマの国境で、四角い木の柱には「泰緬国境」と書いてあった。
  ようやくタイ国へ入れるのか、今度こそ本当に敵に追われる事がなくなった。しかし累々と続くジャングルの山中を果たして「チェンマイ」までたどり着ける自信はなかった。
  しかし何となく「ハシャギ」たい様な気持ちになり、片足をビルマへもう一方をタイ国へ置き「さらばビルマよ」と小便をした。果たしてどちらへ多く流れたやら。


三本のバナナ
  山を下り切った所に「トッペ」という部落があった。其処には、私がマラリヤで橋の下で一夜を過ごした時先に行ってもらった金子さん達がおり、彼等もマラリヤに患り休養していた。驚いた事に、私が発熱の時見向きもしないで先行した「饅頭傘の佐藤」と呼ばれていた兵隊が病死したと言う。何という皮肉な事だろうか。
  「トッペ」では家の中で眠れると思っていたが駄目だった。先に行った兵隊が悪いことをして行ったのであろうか中々民家へ泊めてくれなかった。仕方なく家の軒下に寝る事になった。
  今朝はまた霧雨で昨日越えてきた山々は頂上が見えるだけだ。
  今日の旅立ちも同じメンバーだ。長岡の金子さんは、表面物静かな商人タイプの人だが中々芯の強い人間だった。彼はまた物資調達の名人で、ちょっと姿が見えないと思うと米を3合ばかり持って現れ、農家で米搗きの手伝いをして貰ってきた、と言って笑っている。彼のおかげで道中ずいぶん助かった。
  其の日の行程は短く、「クーニャン」という町に泊まる事になった。
  「姑娘」、面白い地名だと思っていると「クンニャム」だとのことだった。よその国の地名は似た様な発音が多く分からない事がある。
  ここでも糧秣補給所や兵站宿舎もあり久し振りに家の中で泊まる事が出来た。
  「クンニャム」からは「チェンマイ」に通ずる3本の兵站線があるという。何処がどんな道かは分からない、大分遠回りになるが山が一番少ないという北兵站線を行くことにした。
  先日来の発熱で食欲が全然ない。腹は減っているのだが飯盒の蓋を開けた途端、飯の匂いが嫌になってしまう。
  色々考えて焼きオニギリにすると香ばしい香りに誘われて何とか食べられる。しかしそれも二日続けるとすっかり胃を悪くしてしまった。
  そうこうしている内に金子さんが或る部落でバナナを一房見つけて来てくれた。
  久し振りに食べるバナナが非常に美味しく、夢中で3本食べてしまった。いや不思議なことが起こった。今までどうしても受け付けなかった飯がどんどん食べられる様になって来た。
  食欲が出てくると急に元気が出て体調も元通りになって来た。


将校と兵隊
  相変わらず雨とも霧ともつかぬ雨が降り続く。泥道に足を取られ無理に抜くと靴の半張皮が取れそうになる。
  ようやく少し平坦の道に出た。どうした事か道の両脇に点々と遺体が1キロ程にわたって転がっている。同じ場所に多数かたまっているところもある。人間死ぬまで集団心理があるのだろうか。
  少し行くと将校が兵隊を叱っている。
  「貴様何処の兵隊だ」
  「はあ」
  「はあでは分からん」
  「いやしくも日本の軍人が、同じ日本兵の遺体から物を取るとは何事だ」。
  と盛んに叱られている。
  見ると遺体の背嚢から米を取っていたらしい。既に死んでいるのだから米は必要ないかもしれない。しかし何とか生き延びようと食べたい飯も腹一杯食べず食い延ばして来たのだ。
  あのコヒマの悪戦苦闘から逃れ、今あの国境を越えやっと平坦地に来たというのにと思うと可愛想でならない。
  だがこれから生き延びて行かねばならない兵隊も大勢いるのだ、と思う心と気持ちは複雑だ。


新しい飯盒
  今晩もまた露営をしなければならない。霧雨はあきもしないでよくも降り続く。
  私は天幕はなし、どうすれば良いのか思案にくれていると、すぐ道端に新しい天幕を張って一人で寝ている兵隊を見た。何とか頼んでみる事に決め、「申し訳ないが一晩横に休ませてくれませんか」と声を掛けると無言で寝返りをした。
  大分疲れているのだろうと思って其の人の端に寝かせてもらった。
  私も疲れているので朝まで何も知らずに眠ってしまった。
  翌朝は明るくなって目が覚め、「有難うございました」と声を掛けたが返事がない。「変だなー」と思って顏をのぞき込んでみると既に呼吸が止まっている。
  昨夜私がお願いしたときは確かに寝返りをしたのだから、眠ったまま死んで行ったのであろうか。
  其の人の枕元に真新しい飯盒が置いてあり、軍服も全部新しいから最近部隊に配属になったばかりの兵隊に間違いない。
  私は負傷のとき全部捨てて来たので代用の飯盒しか持っていない。
  「一晩お世話になって申し訳ないが、君はもう飯盒の必要がなくなったのだから私に下さい」、と言葉にはならないが頼んで貰って来た。
  その後飯盒は有効に使って復員の時内地まで持ち帰り、今でも我が家の家宝として大事に保存してある。


ざまー見ろ
  或るお寺に宿泊した時のこと、本堂には15、6人程泊まっていた。
  翌朝出発する事になると、其の中の九州訛の将校が今から俺がみんなの指揮を取るから俺の命令に従う事、と言い出した。
  今まで誰の指揮というでもなく、自分の体力に合わせて思い思いの行動を取って来たのに、今更直属上官でもないこの将校に従ういわれは無い、と皆不満をもらしていた。
  中に元気のいい軍曹が一人おり、俺は部隊行動はしない、言い出して収まらない。
  将校は駄目だといい張る。軍曹も負けてはいない、「誰に指揮を取れと云われた」と怒り出す。
  回りにいた兵隊は一斉に将校を取り巻き、将校が手を出したら袋叩きにしてやろうと身構えた。
  この雰囲気に気付いた将校は、我に利あらずと悟ってか「そうだ其の意気だ」と、分かった様な、分からない様な言葉を残していずれかへ立ち去った。
  兵隊達は「ざまーみろ」と言って何時ものように思い思いに行軍を始めた。


敗残兵の標本
  毎日続く雨季の雨も時には晴れ間もある。しかし部落から部落へ通ずる道はほとんど泥田とおなじである。
  インパール作戦の始まる時もらった編上靴は糸が切れ、破損寸前だ。
  私はどこかで拾ってきた銅線で補修しながら来たので何とか形だけはよいのだが、満足な靴を履いている兵隊は殆どいない。
  爪先から足の指先を覗かせているのはまだ良い方で、靴も履かず裸足で歩き皮膚がやぶれ赤身をだしている人もある。
  まるで敗残兵の標本の様だ。
  「メーホンソン」の町の入口に将校と兵隊が待ち受けていて、「この町はメーホンソンの県庁のある町だ」「日本軍の威厳に係わるから規律を正して行軍する事」、と注意していた。
  たとえどんなに整然としても、もはや日本軍の威厳を保つことは不可能なことだ。
  将校達は半ば強制的に裸足の兵隊にボロを巻かせて通過させた。
  

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