16.そして終戦

チェンマイの町
  自分で選んだ此の北平坦線の退路は良かったのか悪かったのかは分か らないが、随分日にちが掛かったようだ。
  田圃の真ん中に温泉の湧き出ている所もあった。親切な農民もいた、 不気味な部落もあった。餅米を常食にしている地区もあり、ウルチ米を 見つけるに西奔東走した事もあった。
  昨日親しくなった兵隊も明日は離れ離れになる事もある。悪意がある 訳ではないがとにかく自分だけが頼りである。自分に起きた事は自分で 解決をしなければならない。
  色々あったが何とかチェンマイの町にたどり着くことが出来、チェン マイ郊外の野戦病院に収容された。都会と言っても郊外の病院は竹の柱 に椰子の葉で葺いた病舎が数十棟も林の中に整然として並んでいる。


終戦を知る
  チェンマイに着いて何日か過ぎたある日、マラリヤの発熱で休んでい ると夜中の2時頃非常呼集がかかり全員集まった。こんな夜中に何の話 しがあるのだがろうかと思った。しばらくして帰ってきた兵隊に、何が あったのかと聞くが誰も話してはくれない。2、3人で寄ってはヒソヒ ソと話している、これは重大な事が起きたに違いないと思ったが自分で 起きて聞きに行く気力もなかった。
  朝になってようやく日本が無条件降伏したことを知らされ、非常なシ ョックを受けた。しかしガダルカナルの撤退やビルマ戦線の敗北、また 内地の空襲など、こんな悪戦況の中で果たして日本が本当に勝てるだろ うか、との疑問は絶対に口に出すことの出来ない心の秘密としてインパ ール作戦に従軍した兵隊達は皆持っていた事と思う。
  朝の点呼時の若い将校達の嘆きぶりは見るに忍びない程だった。
  しかし、何か内地が近くなった様な気がして来た。また一方では捕虜 としてどんな扱いを受けるかとの心配も出てきた。
  ドイツ軍は7年間も重労働をさせられているとか、色々な噂が飛び交 ってくる。
  しかし戦争は終わって敵の弾で殺されることは無くなったのだが、ま だまだ今頃タイ緬国境をさまよっている兵隊もいるかも知れない。
  タマビンで負傷の際別れ別れになった井上源治、佐藤康二さん達や中 隊の皆さんはどうしているだろうか、サルウイン河をモチ鉱山方面へ撤 退していったとの情報を最後に、その後の様子は分からない。


バンコクへ集結
  英国軍の武装解除を受けた後バンコクへ集結すべくチェンマイを後に した。
  チェンマイからバンコクまで距離はどのくらいあったかは分からない が、チェンマイに1ヶ月程の滞在後の行軍であるだけに何処まで頑張ら れるか自信はなかった。
  最初の1週間は足に豆を作りながら何とか頑張り通した。それ以後は 何日歩いても今日の疲れは明日に残らなかった。
  2日歩いて1日休養を取り、また2日歩くという行程だったが、明日 の宿営地はどんな所だろうかとの希望が湧いて宿へ着くのが楽しみだっ た。しかし全然疲れがない訳ではない、宿へ着いてから、明日1日分の 飯の支度をせねばならない。行程によっては暗くなってから宿営地に着 く事もある。
  タイ名物の強盗団に襲われた事もあった。敗戦を哀れんでか、それと も日本軍の勇敢さを称えてか部落民総出で果物をふるまって迎えてくれ た所もあった。
  チェンマイを出発以来45日目にバンコク近くのナコンナヨークへ 到着したのが12月頃だった。
  そこには方々の部隊が集結しており軍の町ともいった処だった。行動 中行を供にした事のある金子五郎さん達もすでに来ていた。
  翌昭和21年のお正月も過ぎて、さらにバンコクの郊外に移動しそ の年の5月に迎えの船、航空母艦葛城が沖へ待っている。小さな船から 葛城に乗り移って船のエンジンの音が一段と高くなり、ゆっくり船が動 き始めた時、今度こそ本当に内地に帰れるのだ、との実感が湧くと同時 に大勢の亡き戦友を、あのインド、ビルマの地に残して来た無念さと交 々入り混じった思いがとめど無く溢れて来る。

  さようーなら亡き戦友よ、  さようーならインド、
                       さようーならビルマよ………。
      ありがとうタイ国よ、タイ国よさようーーならーー。

完   

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